| | | | |:--------------------------- |:-------- | --------- | | [[Home\|Koken Arakawa 荒川弘憲]] | [[About]] | [[Diary]] | ![[砂場の天使試論-1.pdf]] 2022 年 1 月 5 日 東京藝術大学美術研究科先端芸術表現専攻修士課程一年学年末小論文 ## 砂場の天使試論――集団的身体としての子どもの無頭人―― ### 要旨 本論文は修了制作での発表を計画している《砂場の天使》という映像メディアをつかった作品の構想段階での試論である。 まず第一章では「ナニモノ」「技術」という二つのキーワードを、本論の関心にふれつつ紹介する。 第二章では《砂場の天使》のコンテクストにある過去作 [[《Jamscape Insectcage》]] にあらわれる無頭人を中心に、それがどのように《砂場の天使》のなかで展開されようとしているのか見出していく。 そして第三章ではベンヤミン研究から得た映画という技術によって集団がひと つの身体をもつようになることと、無頭人的身体とのアナロジーを見出しながら、「個」の解釈をひろげている。 それまでの事柄を踏まえて第四章では、なぜ砂場なのかを考えていく。そしてそのリサーチとして行っている砂場の記憶を集める活動を紹介する。 ### 第一章 キーワード キーワードは第一回 VA[^1] の栗林隆から「ナニモノ」を、第三回 VA の相馬千秋から「技術」を引き出します。 栗林隆は山本浩貴による美術手帖のインタビューのなかで、彼の創作のモチベーションがどこにあるのか問われ次のように答えています。 >1990 年代にドイツの美術大学にいましたが、そこで教授には最初に『お前の作品はどうでもいい、それよりもお前は何者なんだ』ということを徹底して問われました。 そういう意味でも、自分は何者かという問いを追求することの根源的な初期衝動が、 表現活動に結びついています。[^2] ナニモノなのか?を自問する栗林の作品は、「境界」という問題を扱います。VA で実際に訪れた大谷町の採石場跡にインストールされた《元気炉》で、私は「個」の境界について考えました。巨木を模したこの作品の内部には浮遊するように透明な球形のサウナがあり、その中はスチームが白く満ちています。スチームには薬草がブレンドされていますが、サウナに充満することで人の汗が混ざる。他人の汗の匂い、そして味がします。他人の身体組織の一部が自分の体内に混ざるような気分です。このような自他が未分となった意識を導入して「ナニモノ」をもっと馴染む概念にできないでしょうか。 つぎに相馬千秋は VA の講義のなかで、電話やテレビといった遠隔現前のための技術が社会に普及する変化である「テレ化」について広く論じました。この講義をとおして私は、1993 年に韓国の田舎で生まれ、5 歳に東京に引っ越してそこで生活した一連の流れのなかで、現実がテレ化とともに変化していったのを認めるのでした。遠隔現前には過去のものを現在に再現するという能力もありますが、このような能力もふくめたテレ化をヴァルター・ベンヤミンのいう「技術」 に置き換えて、つぎの本論で修了制作《砂場の天使》[^3] を構想するためのキーワードとします。 ### 第二章 コンテクスト―退行する無頭人― 《砂場の天使》は修了制作での発表を計画している作品の暫定的なタイトルです。2021 年に発 表した [[《Jamscape Insectcage》]] の内包するものの多くが、この構想中の《砂場の天使》のなかに延⻑してある。そのなかの主要なものとして一人称視点によってとらえられる頭のない人― ―首から下の人体――があります。それを無頭人と呼びましょう。 [[《Jamscape Insectcage》]] は、虫かごの中からの視点による映像と、自分の頭につけた小型アクションカメラによる一人称視点の映像という、二つの視点が織りなされた映画的作品です。そのうちの一方、一人称視点の映像をみると、そこにうつる無頭人に憑依する気分があります。映像にうつっている無頭人としての自分と、それをみる自分は分裂しているにも関わらず。映像にうつる自分はその意味で他者です。 しかし、その他者の身体に同期してしまう気分になるのは、映像のなかに身体があらわれたときだけではないのも分かります。つまり身体に付属する頭にあわせて、揺れたり移動したりする映像にも、私の身体は溶接されてしまう。J.J.ギブソンが提案するように「自然な視覚は、地面によって支えられた身体の上の頭に付いている眼に頼って」[^4] いるので、映像に身体がうつっていなくても、映像の運動から逆算して、私は身体の運動をもみることができるのです。映像には映らない透明な身体にも同期してしまう。 私は [[《Jamscape Insectcage》]] の映像に登場する無頭人に、まるで浮かび上がるような匿名な頭を感じることができます。その頭がこの映像とそれをみる私とを溶接する場となっている。この頭について、谷昌親 (1998) の研究のなかで検証される、ドゥルーズのベーコン論はおおくのことを示唆しています。 >フランシス・ベーコンの絵画について論じるドゥルーズは、まず身体と顔を対立させた上で、肖像画家としてのベーコンは、「顔の画家ではなく頭の画家だ」とする。というのも、「顔は頭を包む構造化された空間組織であるのにたいし、頭は、身体の先端をなすとはいえ、身体の付属物であるからだ」。肖像画家としてのベーコンは、したがって、「顔を解体し、顔の下に頭を再発見する、ないし浮かび上がらせることをめざすのである。(中略) 顔の解体のあとにその下から浮かび上がってくる「頭」は、もはやわれわれが通常の意味で考える頭、表情をもった顔に包まれた頭、身体を統御する頭ではなくなる。[^5] [[《Jamscape Insectcage》]] の映像に映る私は、顔を失い、無頭人となっている。それをみる私はその無頭人の首の上に仮想の「身体の付属物としての頭」を浮かべる。このときに私の無頭人としての身体はより他者を同一化へと誘うような身体として開かれます。顔、あるいは脳といった 統御するものがない頭によってつながる二つの身体。 作品が他者になにかを伝えるものであるとするならば、私以外のみる人も、この映像に映る身体に憑依されうるのではないかと期待するのは自然な性ではないでしょうか。しかし、それは十分には叶えられませんでした。たとえば女性にとっては、あまりに違うその身体に憑依するような気分は生じ難い。私は映像のなかでうごく無頭人的身体に重ね合わせてしまう感じを、多くの人にも可能にする表現手法を《砂場の天使》の制作をとおして探求したいと思うようになります。 そこで目をつけたのが子供の身体です。大人なら誰もがかつて通過したことのある子供の身 体――無性的であり、そして過去のヴェールに包まれた記憶のうちでの身体であることから、より多くの人がかつての自身の身体として見紛うのではないでしょうか。 ### 第三章 集団的身体のみる夢 《砂場の天使》をみる人が、映像に映る子供の無頭人的身体に吸収されてしまうというイメー ジは、私とはナニモノか?という問いにもつながります。そのイメージからは、「個」という枠組みがあまり意味をなしていない状態の「私」がはっきりと感覚されてしまう。このように映像に映された無頭人的身体のなかを私や、他のみる人も生きていることに気づくときの私は一体ナニモノなのでしょうか。《砂場の天使》で先鋭化されるこの問いは、テレビや SNS が届ける表象が、多数の個人をなんらかの集団へと変貌させる場合においても有効なのは言うまでもありません。 映画という技術に、このような集団の身体化を推進する力があると洞察したのがベンヤミンです。ベンヤミンと同時期の芸術運動としてシュルレアリスムがありますが、シュルレアリスムが探求した「夢」の領域は、彼の思索にも少なくない刺激を与え、1929 年にベンヤミンはエッセ イ『シュルレアリスム』を発表しています。このようなシュルレアリスムとの交流のなかでベンヤミンが「[[集団的身体]]」を観想していたのは、山口裕之 (2020) の著作に明らかです。 >ベンヤミンがシュルレアリスムとの関わりのなかで最終的に提示しようとしているのは、まさにこういった夢を見る「集団」である。シュルレアリスム論の冒頭で、シュルレアリスム一般に当てはまるような言葉の身ぶりをともないながら、「世界の枠組みの中で、個的存在を虫⻭のようにぐらつかせる」シュルレアリスム的経験、夢とのアナロジーにおいてとらえられる「陶酔」によって「自我」がもはや確固とした地 盤を喪失してしまう経験について語るとき、ベンヤミンはすでにこのような「集団」 を念頭に置いていた。集団がいわば一つの身体をもち、夢を見る。[^6] このような一つの身体をもつ集団をつくる技術がベンヤミンにとって映画であるわけなのですが、山口が明言しているのは「映画という集団的受容における身体性は、個々人の身体性の総和であるというよりも、むしろ、技術によって媒介されて生み出された『集団としての反応』に対応するような、いわば仮想的な集団的身体」[^7] をベンヤミンが想定していたということです。 私はこの仮想的な集団的身体を子どもの身体として設計していることになります。しかし、いったい《砂場の天使》が、どのように私たちの眼前に現れるのか私も知りません。その天使の身 体に埋もれていく感覚はいかなるものでしょうか。私はただ、その幼い無頭人的身体が、ベンヤミンの集団的身体を考えるためのアレゴリーとなるのを予感します。 ### 第四章 天使をみつけるための砂場 私とはナニモノなのかという認識は、シュルレアリスムから今に至るまでに地続きな変化の中にあります。私は、子どもが砂場でどのように居るのかを探求しながら、そのナニモノがどのように私的な次元と集団的身体の次元を伸縮するのかみてみたい。子どもにとって砂場は、自分しか見えず砂を友人にかけてしまって喧嘩となったり、大きな砂山をつくるような協同的な遊びを行うようになったりする小社会です。ここで得られる知見はベンヤミンの集団的身体にも転用することができる。 そのためにも、私は砂場の記憶を多くの人にインタビューしています。インフォーマントが砂場の記憶を思い出すなかで、ふと口をついて出る極端な具体性――砂の感触や、泥から固まっていくまでの状態の変化、小さい友達との出会いなどは、それを聞く私にとっても真に迫るものがあります。そのような記憶はうまい具合にいけば、多くの人の眼前にもありありと再現される可能性――他人の遠い砂場の記憶のはずなのだけど、その近くに居れてしまうようなことが起こりうる。さらにいえば、自分にもそれと似た記憶が掘り起こされることもあるでしょう。このことについて少しでも誠実であれば、砂場の記憶を集めることには、ノスタルジックな酩酊がある だけではないことが分かります。深くにある砂を掘り出して、それを盛って山をつくったように、 遠い記憶の数々がある予感へと姿を変えていくのです。最後にそのインタビューのひとつを紹介します。 >砂場。どこまで掘れば下まで着くんだろって、ひたすら犬かきみたいに掘り続けて いって、泥だらけになって、爪が痛くなって諦めったっていう。先輩とか、大きな上級学生?っていうかさ、がスコップとりだして最後にこう「カンッ」って音たててさ。 そうなったときにあ、ここで終わりなんだっていうさ。到達してないそのときが一番楽しかったって。 >砂場っていうと泥団子とか。まあ、あと初期は砂場でちゃんと水遊びしてたりとかさ。結構その乾いた土だと水吸っちゃったり。だんだんこう流れはじめて、誰かがやり残した砂場の残された川の跡にリンクするとかさ。山盛って洞窟つくって、向こうまで手を通せるか、とか。一人でやってたかもしれないけど、誰かがいたかもしれな い。最終的に水を流すタイミングでとかは誰かがいた気がするけど。 >でも、結構夢中になれる作業だよね。自分の手しか映んないとかね。掘ってる最中とかそんなんじゃん。爪のな、爪のあいだが砂だらけ、詰まってるとかさ。たまによく分かんないけど、砂利遊びすると、なんかどっかのタイミングで口の中にはいるからさ、「ジャリっ」って砂利を噛んだり。あとスコップね。スコップでほじくってさ。 バケツ、バケツとセットで。あとはお絵かきね、砂場のお絵かき。今は柵あんだよね、昔柵なかったからさ...。塀がぜったいあるよね。あそこに疲れたら座る。あそこって一番日が当たってて、砂が乾いてく部分で。手が濡れてたりしてるとそこでこう、拭いたり撫でたりすると乾いたりとかあってさ。 >まあ夢中にはなってたよね。犬掻き、足バッてひろげて、大の字に立って仁王立ちになって、しゃーーって。はじめは軽いからさ、それで効率いいんだけど、だんだん 重たくなってくると、重くて掘り返せなくなるし、指も痛くなってくる。そこのときには人にかかっちゃだめだと思って、人がいない側にその砂を投げるようにしてたけどね。壁の方にこう。(2021 年 12 月 6 日) ### 注・引用文献 [^1]: Visiting Artist の略。アーティストの制作場所を訪問する先端芸術表現専攻のカリキュラム。 [^2]: 山本浩貴『美術手帖』、美術出版社、2021 年、4 月号「ARTIST PICK UP」より [^3]: 実際の修了制作では [[《Jamscape Dropping Car》]](2024) を発表した。 [^4]: J.J.ギブソン『生態学的視覚論』古崎敬ほか訳、サイエンス社、1985 年、1 頁 [^5]: 谷 昌親『アナーキズムからアセファルへ――シュルレアリスムとファントマス』、せりか書房、1998 年、 153 頁 [^6]: 山口裕之『映画を見る歴史の天使 あるいはベンヤミンのメディアと神学』、岩波書店、2020 年、179、180 頁 [^7]: 山口裕之『映画を見る歴史の天使 あるいはベンヤミンのメディアと神学』、岩波書店、2020 年、180 頁