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![[令和5年度 修了制作作品解説「Jamscape」-1.pdf]]
## はじめに
まず前提として、この作品解説文は筆者の荒川弘憲による作品《Jamscape》に焦点を当て、そのモチーフにもなっている〈詰まった眺め〉を検討し、表現への応用を記述するものである。
Jamscape は詰まった眺めを、英訳した筆者による造語でもあり、作品のタイトルとして採用している。《Jamscape》は 2017 年からシリーズとして制作している作品だ。眺めと私との相互作用が生じるシチュエーションを制作や作品を通じて生み出していくことで、眺めの複雑さと魅力を表現している。そのための表現手法として映像メディアを用いているが、それは映像メディアが私たちの内蔵感覚に直接的に触れ、新たな眺めの経験をもたらすことに注目しているからだ。
この作品解説文が取り組むことになる問題とは、詰まった眺めをどのように表現し、理解するのかということ。この詰まった眺めは、眺めている意識の能動性と受動性といった、意識の向かう方向が一方向ではなく複雑なものになり、淀みのようになっていったときに、見えてくるものと見えているものとが混ざり合ったような眺めが立ち現れたもののことを指している。この詰まった眺めの経験をくぐることで、私たちに見えてくるものを変容させることができる。詰まった眺めに潜むこの創造性に触れるために、《Jamscape》を制作し、《Jamscape》を経験することを繰り返している。
この作品解説文は 3 章に分けて構成されている。1 章では《Jamscape》シリーズの全体像を網羅的に検討し、シリーズの核となる〈詰まった眺め〉についての理解を深めていく。詰まった眺めとの印象的な出会いの紹介から始まり、《Jamscape》を「Jam の由来」、「曖昧さと即興」、「散らばりと繰り返し」といった 3 つの切り口で分析し、詰まった眺めを粗描してみている。
2 章では、《Jamscape》における映像メディアの使用に焦点を当てていく。映像メディアがどのようにして、詰まった眺めに近づいていくことに関与しているのか、そして映像が内臓にどのように作用するのかを検討している。その中でアメリカのランド・アートで著名なアーティスト、ロバート・スミッソンのサイト/ノンサイトという概念を通ることになる。屋外で制作、あるいは経験された詰まった眺めを作品にするにはどうすればいいか、という課題を彼の思考を踏まえて考えるためだ。このサイト/ノンサイトを参照しながら、一人称視点映像での表現によってどのようにして内臓感覚を発見するに至ったのかを明らかにしていく。
3 章では、《Jamscape Dropping Car》という、修了制作作品として提出する作品について論じていく。この作品の制作背景や、作品それ自体について解説する。そして、この作品が提出する映像インスタレーション空間と身体感覚の関係について荒川修作の〈複数の地平線〉という概念に触れて論じていく。《Jamscape Dropping Car》は、私たちに落下のような感覚を生じさせることを試みるが、それは映像メディアと内臓の交わる経験を濃密なものとすることで、2 章で論じた映像メディアの可能性を実践している。
## 1 章 《Jamscape》の生成
《Jamscape》は 2017 年からシリーズとして制作している作品だ。ある場に私が現実的に、あるいは意識を通して関わりながら、詰まった眺めというものを経験的に検証し、さらには私たち鑑賞者に対してどのように表現できるのか、この作品は試みてきた。
《Jamscape》は 1 種類のあるモノをたくさん散らばるように置いていくことから始まった。今までに、釣竿、ビー玉、テニスボール、タオル、烏除けの黄色いネット、境界杭、虫かご、などをたくさん用意して、それをある場所に散らばすように置いたり、置きながらまた動かしたりする行為を通じて詰まった眺めに関連する感覚の経験を積み重ねてきた。
この修了制作作品解説文の執筆時である 2023 年においては、新たな試みの兆候もある。例えば息を水面に吹きかけて、水面に映る眺めを変化させる試みや、または水を湛えたバケツの底にカメラを設置し、バケツを横向きにして回転させ、地面と垂直な関係を持つ水面から覗いた世界を写し取ろうとする作品としても《Jamscape》は制作されている。本稿の最終章で詳しく扱うことになる修了制作作品 [[《JamscapeDroppingCar》]] も、車の前方に取り付けたカメラによって撮影された、走行中の映像を床面にプロジェクションすることで、落下しているような感覚を生じさせるというような作品である。これらの新しい展開をもつ《Jamscape》からも窺えるのだが、詰まった眺めに関して多岐にわたるアプローチによって表現されるのが《Jamscape》の全貌であろう。
このように多岐にわたる《Jamscape》のもっている本質的な機能や、そこで行われてきた試みやその展開を整理しておいた方がいいだろう。したがって、この章では《Jamscape》が捉えようとしている、詰まった眺めとの出会いの紹介から始め、その後に、《Jamscape》シリーズの作品を参照しながら、「Jam の由来」、「曖昧さと即興」、「散らばりと繰り返し」の 3 つの項に分けて《Jamscape》を分析していくことを通して、詰まった眺めの姿を描き出していく。
### 1-1 詰まった眺めとの出会い
《Jamscape》を制作するのは、私が眺めることに思い入れがあって、眺めることが子どものときから少なくはない時間を費やしてきた習慣でもあることに根ざしている。
眺めについて少し考えてみれば、「眺め」は見られている対象のことでもあるが、「眺める」とその語幹を残して動詞にもなっているように、私が見ていることも「眺め」の意味に含まれている。眺めというものを考えてみるとき、眺めの成立には私が組み込まれている。つまり、私を囲んでいるものの何かが、私の眼差しを惹きつけたといった受動性と、私が見ているという能動性の関係が変動しながら現れるものとして、眺めがあるように思えてくる。
しかしながら、そのような眺めは、本当の意味でただ〈見えている〉ものとどれだけ妥当な結びつきがあるかは慎重になる必要がある。大森荘蔵によれば、このような能動性と受動性の働きは、この〈見えている〉もののレベルにおいては無いのだという。
>能動―受動の構図は「見えている」という状況の中にはない。あるのはただ、目を開きあるいは閉じ、或る方向を向いて「ここに居る」私を包んで風景が「見えている」、ということだけなのである [^1]。
見えているというのは、眼球というレンズに否応なしに世界が映ってしまうという事態だから、そこに究極的には、私が〈見る〉という意識は関与していないというわけだ。
それに対して、先ほども言った、見ることの受動性や能動性が発揮されて、目を向ける方向を変えたり、ピントを合わせたり、注意したりするという私の意識、あるいは無意識によって「見えてくる」ものもある。私が眺めに自分の存在に何かしら応えてくれているものだと期待し、その証拠を掴もうと眺め続けていても、それでもその眺めの折々に、この「見えている」だけの途方もない量の触れ得ないものがあることが予感のようにまとわりついている。眺めによってもたらされる不安定な感覚や、そこで新しく見えてくるものは無尽蔵で、そのことに私はとても惹きつけられている。
つぎの詩はそのあたりの印象を捉えている。この詩は私が17 歳のときの夏に、都立祖師ヶ谷公園の東屋にいたときの経験から書いたものだ(Fig. 1)。
蝉の鳴声が途切れることなく大きな音量であたりに響いていた。夕立が突然そこに襲う。蝉の鳴声と雨音、それらが木々の中で反響してその無数の粒だった刺激に取り囲まれていく。意識がそれらに圧倒されていくのが感じられて、なんだか不安になる。
![[ナマセミシグレ.jpg]]
[]: Fig. 1 荒川弘憲「蝉 針の集合」(2010)
不安は敏感になりすぎた感覚からきている。敏感な感覚は、蝉時雨や夕立の轟音を鳴らしているものの無数の存在を一塊としてではなくて、個々の集まりとして感覚し、それらの存在のざらつきが感覚される。注意はさらに高まっていく。ついに夕立の中を凝視していくようにして、イマジナリーな一粒の雨滴を鮮明に見てしまう。「一つの雨は膨らむ空を割ってしまう」。このフレーズにはその感覚過敏のある到達が現れている。
この極度の注意から意識はやや散漫へと傾いていく。意識が蝉や雨への能動的な働きかけを弱めていくと、蝉の鳴声や夕立は私とは関係がないもののように拡散していくのだが、その拡散していくものが入ってくることがなく、残されている意識の領域があることに気づいていく。広がっていく蝉の鳴声や夕立は私のその意識を囲んでいくことで、それは浮かび上がっていく。「見えなくなりそうな意識の輪郭をその針の集合で示す」のである。これは今まで見えてはいたが、見えてはこなかったものが示された瞬間の感覚で、この瞬間が詰まっているという事態でもある。
眺めている意識の能動性と受動性、その意識の向かう方向が一方向ではなく複雑なものになり、淀みのようになっていったときに、見えてくるものと見えているものとが混ざり合ったような眺めが立ち現れる。その眺めは少しゆっくりとなって、滞っているように感じられることから〈詰まった眺め〉と呼ぶことにしている。詰まった眺め、この不思議な眺めが《Jamscape》という作品のモチーフでもある。
### 1-2 《Jamscape》とは何か
#### 1-2-1 Jam の由来
まずは《Jamscape》の〈Jam〉の由来を紹介して、社会的な文脈で用いられる、この Jam のもつ機能を、どのように《Jamscape》において適用させているのかを確認する。そしてこの作品の持っている〈スムーズな眺めを詰まらせる〉という機能を確認する。
Jam はアメリカを代表するポップスター、マイケル・ジャクソン (Michael Jackson) の一曲「Jam」(1991) から引いてきたものだ。この曲の中で繰り返し短く叫ばれている Jam は、リスナーである私たちに「Jam しよう」という呼びかけとして受け止めていいだろう。この呼びかけの意味を安冨歩は『マイケル・ジャクソンの思想』の中で分析されている。安冨によると、自分の内なる感覚を忘れて、現代社会のシステムをつつがなく維持するための歯車として生きる状態が
「スムーズな状態 [^2]」であり、このスムーズな状態を「自分自身の感覚に立ち返って行動 [^3]」し、この歯車を止める行為がJam であると解釈されている。
この Jam が、具体的にどのような実践として《Jamscape》の中に現れるのだろうか。[[《Jamscape Towel》]](2019) という、13 枚のタオルを用いた作品では、河川敷の簡易ベースボールグラウンドを取り囲むネットに、タオルをかけていくことで眺めを Jam させようとする (Fig. 2)。
タオルをグラウンドのネットにかけるというのは、野球場が使われていたとしたらありえないことでもないが、それを一人の人間が、何枚ものタオルで同じことを繰り返しているとすれば、日常的なネットやタオル、そしてその場所との関わり方としてはズレたものであり、その意味でスムーズな状態とは言えないだろう。1 枚のタオルをかけてから、13 枚目までのタオルをかけていくということは、このようなスムーズと Jam のあいだを移行していくような手続きでもある。
「" ジャム " するということは、自分自身の上に立ち上がること [^4]」とも安冨は言うのだが、タオルをネットにかけていくことで、スムーズな眺めを Jam していくうちに、タオルの位置や間隔といった細かいものや、それを含めた周囲の眺めについての印象が生まれているのが分かる。眺めの生成に自分が関わっていくことで、こだわりのようなもの――このこだわりとはどこまで偶然や外部を受け入れるのかということにまで及ぶ広いものでもある――が生まれるのだ。
![[Jamscapetowel_01.webp]]
[]: Fig.2 荒川弘憲 [[《Jamscape Towel》]](2019)
したがって、私のこの《Jamscape》という作品での経験は、自分自身の感覚が初めにあってから Jam するというのではなくて、Jam 的な状況を生み出していくことで、自分自身の感覚が現れるというようなプロセスの方が主流にあると考えた方がいいかもしれない。Jam によって、スムーズな状態として自分と同時進行していた意識や世界が詰まり、それによってそれらのつながりが、ちぐはぐになることで、眺めの中にスムーズな状態で見えていたものからはみ出たものが現れてくる。Jam する前には思いもしなかった感覚とともに眺められるのが、詰まった眺めでもあるのだ。
#### 1-2-2 曖昧さと即興
《Jamscape》シリーズを制作してきた場所を振り返ってみると、沼の上、谷津田、人の少ない公園、明け方の道路といった、人目にあまり触れない場で制作をしている。そうした場所で一時的でかつ現状復帰が可能な制作を行なってきた。
このような場所で制作するのも、私が《Jamscape》を制作するにあたって、ある場所にたくさんのモノを配置したり、立ち尽くしたり、歩き回ったりしながら、眺めを多角的に経験しようとするためである。その場に滞留するのが受け入れられることで、意識や行為がどのようにそこで響いていき、眺めがうつろっていくのかが経験できる。つまり《Jamscape》には、私と場との相互的で持続した時間の経験を与えてくれる場が要求される。そこで生じている、ある意識状態によって、場や眺めと私との分別が曖昧になっていく。
[[《Jamscape Marble》]](2019) はバケツ一杯分の青いビー玉を、明け方の車道の O リングに埋め込みながら、ビー玉で描かれた円環をいくつも出現させるような作品であり、この作品の中でも、このなんでもないような車道と私との隔たりが曖昧になっていくのを感じた (Fig. 3)。
![[Jamscapemarble_01.webp]]
[]: Fig.3 荒川弘憲 [[《Jamscape Marble》]](2019)
ただ当時住んでいた家のそばにある、普段は歩いたり車で通り過ぎているだけの道であったはずが、この作品の制作をしていくうちに、O リングの溝の勾配の下がる方にだけ砂利が溜まっていることを、埋め込んでいたビー玉の飛び出し具合によって知ったりする。そしてそのことが可笑しく思うというように、感情にまで影響を及ぼしていく。なんの変哲もない車道の持っているさまざまな情報が、私の感覚や意識に刺激を与えながら混ざっていき、車道が私に浸透していく。
《Jamscape》の可能性を拡げておくために、この曖昧さをもう少し異なる角度から照らしてみたい。アメリカの環境哲学者、ティモシー・モートン (Timothy Morton) は、アンビエントという詩学によって、環境への意識について思考し、私たちの世界が抱えている環境の問題に対してどのように向き合うべきなのか考えている。
篠原雅武の『複数性のエコロジー――人間ならざるものの環境哲学』の中で引用されているモートンの言葉によれば、「即興とは、デリダが指摘したように、読むことと書くことが容易に区別できない状態で、読むことである [^5]」という。ここで曖昧さが発生する原因を即興的な表現の中に見出すことができるだろう。即興は読みながら書くことである。そして書いていくことで読んでいるものがまた新しい顔をのぞかせる。読みながら書くとき、読まれるものと、それを読む私たちという分別に綻びがうまれていく。眺めや場と私との間にもし曖昧さが生じているようなのであれば、それは私たちと世界との即興的な関わりから生じてくるものであるだろう [^6]。
[[《Jamscape Marble》]] においても、車道を〈読み〉ながら、ビー玉を配置するということを行なっていたと言っていいはずである。ビー玉を車道に配置していくにつれて、車道の O リングの均等なばらつきの中に、複数の O リングを連ねて描かれる大きな円環が見えてくるようになった。これはつまり、最初に見ていた車道が、即興的にビー玉をそこに並べていく中で、それまでとは異なるものとして読まれたのだと理解することができるだろう。
《Jamscape》によって詰まった眺めを経験するには、この即興によって生じる曖昧さというのを抜きには考えられないということを、ここに付け加えておく。
#### 1-2-3 散らばりと繰り返し
《Jamscape》を行為という切り口から見たときに、まず浮上してくるのが〈散らばり〉であるだろう。さきほど軽く触れたように、これまでの《Jamscape》のその多くが、1 種類のモノをたくさん散らばるように置いていくという方法をとって制作されている。配置していくときには中心というものが生まれないようにし、その場の条件などに即興的に応じていきながら配置するので、散らかしていると言っても間違いではない配置となっている。
[[《Jamscape Insectcage》]] にいたっては、茨城県牛久市にある NPO 法人アサザ基金が管理する谷津地に、300 個ほどの虫かごを地面の上や、木の枝などあちこちに散らばるように置いた (Fig. 4)。秋の終わりの早朝にこの空間に訪れると、地面から霧が濃く湧いていて、その霧の中から結露したいくつもの虫かごが朝の陽射しを拡散し輝きを眩しく放っていた。
この作品を例にとり、虫かごを散らばすように置いていくことによって、どのように詰まった眺めに貢献することになるのか考えてみると、1 種類のものが散らばるということによって、時間と空間がバラバラなものになっていくということがあるだろう。
空間がバラバラになるとは、複数のものを散らばるように並べることで、その状況の全体を一度に眺めることができなくなるということだ。全体が一度に捉えられなくなることによって、目を動かしたり、身体を動かしたりすることで眺めていくことになる。虫かごがどこにも中心らしきものを持たずにあちこちに散らばっている、バラバラの空間を眺めようとすると、眺めの中で迷っているような体験になる。
つづいて時間がバラバラになるとは、自分の行為の時系列が失われるということを意味する。虫かごの大きさや、蓋の形状が異なっているとはいえ〈虫かご〉という同じ製品をいくつも置いていくことで、どの虫かごを一番初めに置いて、その次にどの虫かごをどこに置いたのかが分かりづらくなっている。《Jamscape》が生成されていく時系列的なプロセスが有耶無耶にされるのだ。これによりたとえば、虫かごを全て配置し終わってから、また配置を変更する場合などに、今までの虫かごを配置していく行為の時系列を正しく記憶した上で配置の決定をしてくことが難しいため、その配置は即興的なものになっていく。
同じモノを散らばしていくことで、時間と空間の方向性が失われていく。そしてそのことによって、Jam に特有の無方向性へと意識が誘われていく状況がつくり出されていく。
少し話は逸れるが[[《Jamscape Insectcage》]] の Insectcage がInsectcage(s) と複数形でないのも実はそのようなところに理由を求めることができる。そのような無方向性の中でさまようことになる意識において、たくさん散らばっている虫かごは、ひとつの虫かごが複数の異なる世界に存在しており、それが凝縮された結果として、虫かごが散らばっている眺めとして立ち現れているものにも見えてくる。作品タイトルの中の Insectcage が複数形でないのも、そのような虫かごの存在の振る舞う余地を残そうとしているためである。
このように散らばりによって、バラバラになった時間と空間のただなかに身体を置くときに、その経験を支えているのが、虫かごを置くという行為や、眺めるという行為の〈繰り返し〉にあることが分かる。これについてもどのようなことか軽く触れておこう。
[[《Jamscape Insectcage》]] は 2 週間ほど山あいの空間に置かれていて、その期間に何度も繰り返し訪れた。その度に積み重ねていた虫かごが崩れているのをまた直していった。直すだけではなく、すでに置かれている虫かごを再び手に取り、そのときの光や影、地形の印象や、自分自身の気分に合わせて虫かごをまた置き直していった。同じ虫かごを扱っているのにも関わらず、置く場所やタイミングが異なれば、異なる事象が生じている。大量に生産された似た虫かごを扱うことで、よりその事象の異なりが際立つ。
こうした繰り返しの行為によって得られる経験の中には、似たような虫かごを、以前も似た場所に置いたような、デジャビュのように懐かしい関わりもあれば、あるいは偶然に見つけた大きなヒメマイマイカブリを捕まえて、虫かごの中に入れるといった珍しい事柄が生じたりもする。それらの繰り返しによる経験が数珠のように繋がっていきながら、経験にリズムが生まれ眺めの中に独特なムードを生じさせていくのだ。
このような繰り返しによって生じた独特なムードは、《Jamscape》を制作している中で新しく発見された、自分自身の感覚とも言えるだろう [^7]。《Jamscape》は 1 種類のモノを散らばすという方法以外でも制作されることもあるので、この繰り返しという性格を大きく解釈してみれば、こちらの方がより《Jamscape》の中で広く適用することができるキーワードかもしれない。
散らばり/繰り返しと Jam。両者の共通点は、共にスムーズな空間や時間というものから抜け出して、無方向で不定形な状況を生み出していくという点である。このことが、詰まった眺めの核心だと思っている。
![[jamscape_insectcage1.webp]]
[]: Fig.4 荒川弘憲 [[《Jamscape Insectcage》]](2021)
## 2 章 映像と交わる内臓
2 章では《Jamscape》の表現手法として採用している映像メディアの可能性をどのように捉えているのかを見ていく。そしてそれは、《Jamscape》のコンセプトでもある詰まった眺めを表現するにあたって、表現手法として映像メディアを用いることの必要性に迫ることでもあるだろう。《Jamscape》で積極的に取り入れている一人称視点映像の分析を経由して、映像メディアの可能性をどのように考えれば良いのか、そしてそのような可能性を《Jamscape》の表現手法にどのように応用していったのかについて検討していくことになる。
この章で論じようとする、映像メディアの可能性がどのようなものなのか、大まかに述べておいたほうがいいだろう。私が積極的に見出そうとしている映像メディアの可能性とは、映像が私たちの内臓に直接的に触れているようなところにある。映像を見ているときに、私たちの内臓はその見ている映像と共振しているかのような感覚がある。物理的な距離があるのにも関わらず、あまりにも速く映像が内臓の感覚に反映されているために、それは直接的なのである。この力能によって映像と私たちとのあいだにある隔たりが消失、あるいはそれについて考えることが無意味になってしまう。これからこの章で造形していこうとする、映像メディアの可能性とはこのようなものだ。
### 2-1 《Jamscape》の表現手法をめぐって
この映像メディアの可能性をさらに論じていく前に、《Jamscape》において映像を表現手法として用いるようになるまでの経緯を確認しておきたい。《Jamscae》の初期においては、現場での詰まった眺めに関するものを、どのようなメディアや表現手法を用いて作品として表現すればいいのか分からないところから始まった。そのような次元から、映像メディアがどのように《Jamscape》において、重要な役割を期待されるようになったのかを検討していく。
初めての《Jamscape》とも言えるのが[[《Standing Rods》]](2018, 6min25sec) だ[^8]。この作品では篠竹を加工してできた釣竿を、茨城県の牛久沼に立てるように浮かべた。50 本ほどの釣竿を浮かべ、複数の釣竿が水の流れによって位置を変えていき、眺めが変化していく作品だ。
この映像作品の大まかな流れはつぎの通りだ。まず沼に浮かべるゴムボートに空気を入れるところから始まる。ゴムボードを水辺に浮かべて漕ぎ出すと、沼の中まで進んでいくボートからの沼の眺めのカットがそれに続く。そして、ボートの上で釣竿をポリフロートつきの筏と組み合わせていく。ポリフロートには釣竿の直径と同じほどの穴が空いており、その穴に釣竿の根元を刺していく。そうして組み上がった釣竿を水面に浮かべ、たくさんの釣竿が水面に立って浮かんでいる眺めが現れる。以上のように〈完成〉までの一連の流れが映像作品になっている。時系列に沿いつつ、完成に向かって必要なカットが選択されているといった映像作品だった。また、この映像作品の中盤あたりでは、釣竿を意味もなく揺らしたり、ロープで繋いだ筏が弧を描いて浮かんでいるといった、よそ見的なカットもわずかではあるが組み込まれている。
この映像作品が主に語っていたのは、〈プロジェクト〉の準備をして、それによってプロジェクトが完了する、ということだった。しかし、その中に挿入されていた、よそ見的なカットがより多くのものを語ることに鑑賞を通して気がついていった。映像全体の流れにおいて割り当てられた意味の中でのカットよりも、その流れとは関係を持たないカットでは、そのカットに与えられる意味の制約が弱まっているという意味で、より多くのものを見ることができる。
2019 年から 2020 年の《Jamscape》シリーズでは、こうした断片的なカットによる想起させる力に着目し、写真によって作品を制作した。この時期に制作した 5 つの《Jamscape》においては、写真が増殖していくような展開を見せている。まずは、ある 1 種類の複数のモノをある場所に配置した状況の全貌を一枚の写真におさめたものから、次にドローイングと 3 枚の写真とを組み合わせて一つのフレームの中にまとめたもの、そして 32 個の額縁に写真、ファウンドオブジェクト、地図をはめ込み、それらを重ねていくことで壁のようにしたもの (Fig. 5)、というように写真は作品の中で増殖していった。これらの写真を用いた作品では、写真が増殖していくことによって、写真はスナップショットのような断片的な性格を帯びたものへとなっていった。
![[1910_Jamscape_pin_akwork00003のコピー のコピー2.jpg]]
[]: Fig.5 荒川弘憲《Jamscape Pin》(2020)
このような断片的なものを扱うような手つきのままで、映像作品にできるのではないかという期待のもとに制作したのが、[[《Jamscape Insectcage》]](2021, 32min28sec[^9]) である。この映像作品は作者の一人称視点と、虫かごの内側からのぞき見た視点とが互い違いに映し出される構成になっている。[[《Jamscape Insectcage》]] には写真で制作していたときに養われていった、スナップショット的な性格が引き継がれることになる。それは額にアクションカメラを取り付けた一人称視点の撮影方法としてまず表れている。一人称視点映像によって、谷津地の空間に虫かごを配置していく様子が撮影されているが、虫かごを扱っているカット以外にも、虫を捕まえるカット、蜘蛛の巣を壊すカット、高いところから飛び降りるカット、木登りをするカットなど、さまざまなカットが前後の関係が不明瞭なままで、この映像作品の中で並べられている。目的を遂行していくためのカットと、よそ見的なカットという区分け自体がこの映像作品では問題にされていないのだ。
《Jamscape》において映像メディアを表現手法として選択するようになった経緯をこれまで見てきたわけだが、断片化された写真や映像のカットの数々を、ある目的のために組織されないように扱うような表現の軌道へと近づいていこうとするのが確認できるだろう。現場での経験や感覚や、現場では見えてこなかったけれど実はそこで見えていたものが映されていることへと、より関心が向いていったことがこれには影響している。このことを言い換えてみれば、制作現場を撮影した映像が記録にとどまってしまうのではなく、現場では見えてこなかったものを、見えるようにする、ということに価値を見出していったとも言うことができる。したがって現場と記録された映像との相補的な関係を作品として捉えることによって、より作品が深みを得ていくような表現として映像メディアを扱っていこうとするようになっていった。
映像メディアがどのように《Jamscape》において単なる記録手段を超えていくのかを明らかにしていくために、ロバート・スミッソン (Robert Smithson) の「ノンサイト (Nonsite)」という概念と映像メディアがどのように結びついているかを見ていこう。
### 2-2 ノンサイトとしての映像
スミッソンは 20 世紀中頃に起こったランドアート [^10] という美術動向の代表的作家である。スミッソンはアメリカの広大な土地を旅しながら、作品とテクストの発表によって、新たなアートのあり方を提示した。ランドアートのその多くは巨大で保管もできず、風化によってその形を次第に失っていくなどして、現在ではフィルムやドキュメントのかたちで残されている。ここには《Jamscape》とも同じような、現場での物事をどのように作品にしていくかという問題があり、スミッソンはノンサイト (非―場所) という概念を生み出したことで、この問題を乗り越えるためのアートの理論をかたちづくるのに大きな足跡を残した。
ノンサイトはサイト (場所) と呼ばれる屋外や、屋外でのプロジェクトと相補的な関係を持っている概念だ。ノンサイトはスミッソンの作品のタイトルにもなっており、その作品は山や工業地帯を旅するなかで集められた幅広い種類の物を組み合わせたものもある。
ローレンス・アロウェイによればノンサイトとサイトの関係は次のようなものとして語られる。「サイトは地図、写真、類比物 (その土地の元の地勢を暗示する箱やトレー)、岩石標本、そして言葉の標題などの形式を通じて作家の提供する情報によって確認される。ノンサイトは、このレファレンスの積み重ねによって、不在のサイトの表示者としてふるまう [^11]」。サイトは断片的に様々なメディアによって集められ、サイトという海洋的 [^12] な対象は、展示可能な状態のノンサイトという容器に収容されることになる。
私たちはこのノンサイトを鑑賞し、サイトのことを想像する。それはつまり、サイトとノンサイトの間の距離を私たちが「作品」として経験しているという状況がつくられているのだと言えるだろう。スミッソンがユニークなのはこの点であり、三輪健仁はそれを次のように言う。
>スミッソンは作品を完了したものでなく、自然の諸プロセスの影響を受け、変化していくものと捉えていた。そして作品の意味は、自律した形態を持つ「物体 (object)」としてではなく、サイトとノンサイトの間に抽象的、流動的なものとして立ち上がる。地図や鉱物は「断片」であり、それそのもので完結することはない。スミッソンは、断片を起点に、それをめぐる思考や、それが生み出す記録や解釈など、さまざまな経験がネットワーク状に構築されるという、新たな芸術の在り方を提示しようとした [^13]。
スミッソンはサイトという海洋的であるがゆえに、その全体を捉えきれないものを、ノンサイトという作品や概念を用いて断片化していく。断片化されたノンサイトとサイトとの間に発生する空間において〈旅〉するという作品の可能性をスミッソンは示している。
そしてここが注目すべきことなのであるが、スミッソンはノンサイトという概念を《Spiral Jetty》(1970) において、フィルムという形式で映像メディアにも応用している傾向が認められるだろう [^14]。《Spiral Jetty》はアメリカ・ユタ州のグレートソルト湖の北側の浜辺につくられた渦巻き型の突堤だ。岸から渦巻きの先端までは約 460 メートルで渦巻きの線の幅は約 4.6 メートルある。この巨大な土木事業を伴う作品はそれ自体でも十分にその存在感を示しているが、スミッソンはこのランドアートをつくりながら 35 分間のフィルムも残している。それを見てみると、サイトにある《Spiral Jetty》のみによって作品が成立するのではないことが分かってくる。
なぜならば、スミッソンはこの映像作品の中でベケットの詩を引用したり、地図の上を移動するように撮影したりすることでノンサイト的な断片を提示しているし、さらにここで重要なその理由として、スミッソンにとって私的なものとして Spiral Jetty を内包しようとするかのように、映像の中でグレートソルト湖の水平方向の広がりが映り込んでしまうことを避けている。「スチール写真では、低い位置での側面からの映像を好んで使っている。そのカメラアングルの典型例は、わずかに前かがみになって、空があまり見えていないことや、あるいはクローズアップである [^15]」。このような撮影上の工夫は、作品がサイトにのみ存在するものとしてではなく、映像としてのノンサイトがあることで生じてくる空間において存在しているように見せるための配慮だと言って良いだろう。スミッソンの言葉でも、「映画の中のサイトは、場所を特定されたり、確信されたりすべきでない [^16]」と語られるのである。
スミッソンがノンサイトのひとつの表現形式として映像を用いることで、《Spiral Jetty》に取り組んでいたことについて見てきた。その映像に映されているものは断片的なものの集まりであり、それらの断片に触発されて動きだす思考といったものが作品として立ち現れてくる。そうしたサイトとノンサイトが互いに侵食しあう関係というものが見込まれたうえで、この映像の中で行われていた映さないものを決定するといったスミッソンの配慮は、ようするに境界を策定していくことだと言える。スミッソンによってサイトとノンサイトは次のような用語と対応すると説明されるのを確認しておこう (Fig. 6)。
![[🏞️_Extra/サイトノンサイト.jpg]]
[]: Fig.6 サイトとノンサイトに対応する用語のリスト [^17]
### 2-3 一人称視点映像に浮かぶ頭
《Jamscape》における映像メディアに立ち返り、一人称視点映像においてサイトとノンサイトの関係がどのように展開しうるのかをここでは考えてみたい。
まずはノンサイトとして一人称視点映像を扱った場合について考えてみると、それは映像の中のノンサイト的に断片化されたシーンの数々によって、その映像の中に映されているサイトを想像し、それによって思考や解釈などが生じてくるような作品となるだろう。
しかし、実際に一人称視点映像を鑑賞すると、そのような作品の捉え方では捉え損ねているものがあるのに気がつく。スミッソンが想定した作品が、ノンサイトによって生じるサイトとの間にあるものを、想像力を使って旅する経験だとすると、映像メディアには、どうやらそれだけでは捉えきれないものがある。つまり、一人称視点映像を私たちが完全にノンサイト的な断片として見ているわけではない。映像というサイトがそこにはある。私たち自身によって直接的に経験されるサイト的なものとしても映像が存在しているということを、一人称視点映像を見ているときには感覚されているのである。
それがどういうことなのかを扱うにあたって、[[「さいたま国際芸術祭2023」旧おおみや市民会館、埼玉]] のメイン会場で発表した [[《Jamscape Breath》]](2023, 10min09sec) という一人称視点で撮影された作品を傍にしながら検討してみたい。[[《Jamscape Breath》]] はさいたま市の見沼という地域のリサーチから制作された作品である。2023 年 8 月に早朝の芝川第一調節池で撮影された。一回の長回しで撮影されたこの映像には、凪いでいる水面に息をすることで生じる泡や漣によって、眺めに変化を生じさせていく様子が映し出されている (Fig. 7)。
![[Jamscapebreath_03.webp]]
[]: Fig.7 荒川弘憲 [[《Jamscape Breath》]](2023)
映像の中央のあたりを境にして、水面と空とに分けられている構図が、はじめと終わりの水中のシーンを除いて一貫して続いている。それは繰り返す呼吸と合わせて緩やかに上下している。呼吸の音が映像の主要なものとしてはっきりと聞こえてくることとも合わせみると、この映像が、頭を水面の近くにまで近づけた状態で撮影された一人称視点映像であることが分かる。ここまでがごく一部ではあるけれどノンサイト的な鑑賞によって捉えられたものだと思う。
しかし、このような映像に映っている状況を推測するという鑑賞のあり方ではない経験もあるはずだ。映像の中で、水面の高さが構図の中でかなり上まで来たときに、水面にかなり近づいているということに、ハラハラしてしまうのは分かりやすいそのような経験のひとつだ。またもう少し考えさせられるものとして、この映像のはじめと終わりをループとして繋いでいる約 30 秒間の水中のシーンがある。無音になるそのシーンを前にすると、今までの水面や空が映る映像と身体とを結びつけていた関係がなくなり、身体の所在が危うくなる感覚が生じてくる。しかしながら、注意深くその水中の映像を見てみれば、水中に浮かんでいる藻や舞い上がっている泥などの揺らぎ、そして明暗の変調などがあることが分かる。そのようなささやかな動きや明暗の移ろいを鑑賞している私たちは、自身の身体がそれらと繋がっていこうとするのが実感されてくる [^18]。このような私たち自身の身体にその多くを依っている経験はサイト的な鑑賞として捉えられると考えられるだろう。
一人称視点映像によってそうしたサイト性が効果的に感じられるのはどうしてか。そう考えてみたときに、まず思いつくのが、その映像を見ているときに、一人称視点映像を撮影している撮影者の頭を、鑑賞者の頭が補完してしまっているからではないか、というものだ。
一人称視点で撮影された映像にはときどき腕や脚、胸などが映り込む。つまり頭のない人――首から下の人体――が映像の中にいるのだが、この頭のない身体を「無頭人」と呼ぶことにする。私たちが一人称視点映像を見ると、そこにうつる無頭人の身体を経験しているかのように感じることがあるだろう。一人が首を横に傾けて、もう一人がそのもとあった頭の位置に自身の頭を持ってくる、あの二人羽織と似た感覚である。映像の中の無頭人に、私たちの頭がのせられているかのように感じられるのだ。
このような感覚になるのは、[[《Jamscape Breath》]] でもそうであるように、映像の中に身体があらわれたときだけではない。つまり一人称視点映像を撮影している頭の動きにあわせ、揺れたり移動したりする映像を見ても、私たちは映像に映っていない無頭人を経験するだろう。J.J.ギブソンが言っているように「自然な視覚は、地面によって支えられた身体の上の頭に付いている眼に頼って [^19]」いるので、映像に身体がうつっていなくても、映像の運動から逆算して、その身体の動きをおおまかに知ることができる。こうしてみると、映像に無頭人が映っているというよりも、映像は無頭人であるとさえ言えてくるだろう。
無頭人としての映像に気がつくとき、映像の手前にその映像の撮影者の顔が分からない状態の頭が浮かび上がってくるはずだ。この頭を仲介点として、私たちの身体にサイトとノンサイトの関係をスライドしてみるとどうなるだろうか。
もちろんサイトとノンサイトの関係を身体の中に置き換えたところで、それは他者に見えるものではないという意味で、芸術の表現とは言えないことを踏まえて恐れずに言えば、サイト=身体、ノンサイト=頭と対応するということが言えるのではないか (Fig. 8)
サイトは周縁、多であり海洋的なものであるとすれば、それは開かれっぱなしの世界である。そして私たちの身体もさまざまな刺激や情報を無分別に受容しているという意味でサイト的である。その一方でスミッソンが限りない海洋的なものに制限を設けて、映像や言葉、地図、写真などを用いてノンサイトという断片をつくっていたように、頭は多様な感覚や情報を収束させ、ある認識をつくり出していく。ノンサイト的なものを生み出す場としての頭があるとは言えないだろうか。
一人称視点映像の浮かんでいる頭を私たち鑑賞者が補完することで、映像をみる私たちの側からは映像はノンサイトに、そして映像の中の無頭人はサイトにいることになる。そして私たちの頭はそのどちらとも繋がっていることによって、映像をノンサイトとしてだけではなく、サイトにいる無頭人とのつながりをもっているものとしても経験することになる。[[《Jamscape Breath》]] ではそのことを暗示するように、鑑賞用の椅子が一脚だけ映像と対峙するように置かれている。
![[スクリーンショット 2024-11-06 22.18.54.png]]
[]: Fig.8 一人称視点映像におけるサイト/ノンサイトの関係
### 2-4 発見される内臓
ここまで説明してきた映像のもつサイト性と、私がこの章のはじめに言及していた〈映像が私たちの内臓に直接的に触れる〉という、あの映像メディアの可能性とはそう遠くはない。
先ほどの議論の中で映像のサイト性とは、ふたとおりのものとして語られていた。ひとつは、水中のシーンの微かな画面内の運動を見るということによって、その運動と繋がっていこうとする私たちの身体を見出していく経験のことであった。そして、またもうひとつ別の語りかたで示されたサイト性とは、無頭人としての映像を鑑賞することで、映像の前に浮かぶ頭を結節点としてサイトにいる無頭人と私たちの頭とが繋がることで経験されるもの、それがサイト性であるということだった。
しかし片方では私たちの身体にサイトを見出しており、もう片方では映像という無頭人がいる場所、あるいはその無頭人がサイトであるというような書き方をしていて矛盾しているようにも思える。この矛盾をおそらく解消するのが〈映像が私たちの内臓に直接的に触れる〉ということの意味するところであるだろう。ここではその理屈については焦点を当てず[^20]、内臓というものをどのように発見するに至ったのか、そしてそれはどのような経験であると言えるのかを [[《Jamscape Insectcage》]] を取り上げて見ていく。
[[《Jamscape Insectcage》]] において内臓の感覚をより発見することができるのは、カットとカットが切り替わる瞬間である。そのことを意識しながらこの映像作品は編集されている。というのも虫かごを配置していくという行為が目的を持ったものとして読み取られないように、断片化したカットを繋ぎ合わせるためのカッティングの采配の基準は、このカットとカットの移り変わる瞬間の内臓の感覚に頼っているからだ。
たとえば、手鏡の上にカマキリの卵が乗っているカットから次のカットへの移り変わりを見てみよう。カマキリの卵を載せている手鏡を色々な角度に回していると、当然のことながらカマキリの卵はコロンと倒れてしまう。そして倒れたところで、ガチャガチャという音とともに、目の高さにまで虫かごを抱えて山道を運んでいるシーンに切り替わるという具合である。ここでは蟷螂の巣が倒れるというちょっとした驚きと、抱えた虫かごをガチャガチャ言わせながら歩いているカットの賑やかな音や運動によって生じる内臓への刺激の質感や大きさが、近いものであることからこの並びが選択されている。あるカットとその次のカットが衝突することで生じるショックのようなものが、鑑賞者の内臓にどのような感覚を与えるのかを吟味しながカットを繋ぎ合わせているのだ。
映像作家のほしのあきらによれば、私たちはこのカットとカットのつながりの瞬間に実はもっとも反応しており、これによって「各々のカッティングはリズムを生み、各ショットだけでは生まれ得ない印象を呼び起こす [^21]」のだと指摘している。私はこのカッティングによって、内臓の緊張と緩和、伸縮や動きの緩急を感じながら映像にリズムを生み出していこうとしている。
内臓感覚が私たちの内臓の感覚であるという経験を、また別のカッティングを通して見てみたい。虫かごが積んである車に向かうため、少しぬかるんだ下り坂を降りていると滑って転んでしまう。すぐに立ち上がるが転んだことで動悸が起きているのだろう、呼吸が荒くなりながらしばらく歩いている。そしてその途中で突然、静止して空を見上げているカットに切り替わる。虫かごの蓋についた窓を通してその空は切り取られている。この動的カットから静的カットへの急な切り替わりによって、虫かごの蓋についた窓から空を見ているのにも関わらず、先ほどのぬかるみを転倒するカットの激しさの余韻が尾を引きずっているのが感覚される。それはまるで乗っていた電車が急に止まったときに、今まで私たちが同一化していた電車の進んでいる運動が、私たちの身体の内側からつんのめるように感じられてしまうようである。
しかしながら映像にそのような物理的な力はないだろう。だけれどもそれと似た感覚が私たちに生じているという事態は、映像の持つ力がほとんど直接的なものとして、私たちの内臓の中で再構成されているようではないだろうか。ここで無頭人と私たちの関係を思い出してみると、無頭人――あるいは映像という無頭人――と繋がっているような感覚は、私たちの内臓によってなされていたことがこの瞬間に抽出されているように思われるのである。
これで内臓の発見がどのようなものであるのかが述べることができたと思う。映像や、映像のカット間の移行が生み出す内臓への直接的な影響をここでは取り上げ、映像と内臓感覚の関係について検討してきた。映像メディアは視覚的な経験を超えて、私たちの内臓に入り込むという経験は、私たち自身の内臓が映像と交わりながら、感覚を再構成しているという認識を与えてくれるものだろう。この発見は《Jamscape》が追求する、詰まった眺めを、作品において鑑賞者の内臓から発生させるための糸口になっていく。
それではこれによって生じる事態とはどのようなものなのか、それは今後に取り組むべき問題ではあるが、その興味深い手がかりを紹介してこの章の終わりとしたい。その手がかりとなるのが〈首なし〉、〈顔なし〉、〈切裂かれた身体〉だ。
〈首なし〉、〈顔なし〉、〈切裂かれた身体〉、これらは [[《Jamscape Insectcage》]] の一人称視点映像にすでに現れていたものたちだ。首なしは一人称視点映像が無頭人であるということ、顔なしはその無頭人としての映像に頭を浮かべたときに顔が想像できないということ、そして切り裂かれた身体とは、映像に映る身体の行為の目的が撹拌されるかのように、映像がカッティングされて編集されていることだと言ってみたい。
そしてこのようなイメージが19 世紀のフランスのさまざまな芸術や哲学において取り上げられているのである。谷昌親の「アナーキズムからアセファルへ――シュルレアリスムと『ファントマス』」という論文には、顔が取り替えられる怪盗ファントマスや、『首なし』という自動記述を用いて書かれたという詩集、首なしで切り開かれた腹部に腸をのぞかせるアセファルなど、さまざまなこれらに関連する当時の文化的諸相を総覧することができる。
そして、そのような表現から見て取れる傾向としてあるのが、「身体の組織性の破壊 [^22]」であり、それによって「通常の意味で考える頭、表情をもった顔に包まれた頭、身体を統御する頭ではなくなる [^23]」、そのような状態を引き出そうとする。引き出すという言い方が悪ければ、症状が生じていると言った方がいいだろうか。このような「身体の組織性への破壊」がスムーズで硬直化してしまった表現や意識、世界を破壊し、まだ未踏の表現や意識、世界に踏み入れるような試みがなされていたということは、谷によっても指摘されていることである。
《Jamscape》による一人称視点映像や映像メディアの用い方には、そのような身体の組織性への破壊と通底するものがあるだろう。映像という無頭人と私たちの身体がつながり、通常とは異なる内臓の感覚が生じることは、その両者の身体のあいだで起こる痙攣的な事態とも言える。このような統制がスムーズになされないところにこそ、詰まった眺めの機構が隠されているのではないだろうか。そしてその機構における内臓との交わりが映像メディアにおける表現の関心の焦点として絞っていくことで、内臓感覚によって映像の表現言語、ひいては映像も含めた〈眺め〉を詰まったものにしていくことができるのではないかと考えている。
## 3 章 修了制作作品《Jamscape Dropping Car》
### 3-1 ドライブと落下
修了制作作品として発表する [[《Jamscape Dropping Car》]](2024, 6min54sec) は暗室の中で、床面にプロジェクターを用いて映像を投影し、5.1ch のオーディオ空間を備えたヴィジュアル・サウンドインスタレーション作品である。
この作品は高速道路を車で走行中に感じた、走行中の前方の眺めの中に吸い込まれるような感覚から着想を得ている。この感覚を言葉で説明するのは難しいが、車で走行しているときに感じられていたスピード感が失われていき、それによって周りの空間と、運転している自分の位置関係の確からしさがなくなるような感覚だ。高速道路は延々と続いているので、まるで終わることのない深みに落下していっているようにも感覚される。
この固定点を見つめながら単調な道を運転することで、判断力や注意力が鈍くなっていき、空間の認識に異常が生じる現象は「ハイウェーヒプノシス (高速道路催眠現象)」としてよく知られている。重力による落下も、車のエンジンの推進力による直進も、その運動の外観のうえでは同じであるので、ドライブが落下として疑似体験されるのも不思議ではない。
地面と水平方向の移動を、垂直方向の移動として誤って知覚するこの経験は、眺めが倒立するという驚異的な事態でもある。この日常の地上の重力が捻れたように経験される事態に伴い不定形なものとなる意識によって、詰まった眺めを発生させることが可能なのではないか。[[《Jamscape Dropping Car》]] は、眺めが倒立することで発生する詰まった眺めを、映像によって表現しようと試みたものだ。
### 3-2 養老天命反転地へのドライブ
このドライブ中の眺めの体験を落下の体験へと転じさせようとする発想の中で、頭の片隅にあったのが[[荒川修作]] というアーティストがつくった《養老天明反転地》(1995) のことである。荒川修作はアーティストという存在を超えて、哲学や科学、建築など幅広い分野を横断して創作や思想を展開してきた人物だ。荒川はそのような多様な分野を横断し統合をはかろうとする自身のことを指して「コーディノロジスト」と称している。その荒川修作によって岐阜県養老町につくられた《養老天命反転地》は水平や垂直や平面が見当たらない奇怪なテーマパークだ。このテーマパークを訪れる私たちは、うねる大地や、家具が壁に巻き込んだまま聳える迷路のようなパビリオンなどを体験することになる。このテーマパークの中で私たちは身体的な体験から、人間の知覚というものがハックされ、新しい知覚へと知覚を組み直していくことに挑戦することとなる。
《養老天命反転地》を支えている、荒川修作が発したコンセプトに「複数の地平線」というものがある。テーマパーク内の傾斜と、通常の重力を逸脱した角度や配置で建築された数々の建築物の中にいると確かに地平線を見失ってしまうことがある。この複数の地平線という概念の持つパワフルな可能性を大平具彦は『20 世紀アヴァンギャルドと文明の転換』の中で次のように解釈している。
>傾斜によって重力感覚が撹乱されるため新しい知覚モードが形成されることで新たな地平線が作られる。ということは、われわれが地平線はひとつと思い込んでいるのは、われわれの知覚と身体が単一のモードだけに封印されているからにほかなるまい。複数の地平線とは、したがって、我々という身体が幾重にも開いてゆく可能体であることを、地球力学的に表現したものであると言える [^24]。
私たちの生きている空間が持っている本質的な広がりが、この複数の地平線によって暴露されるのだ。そして、そのことによって日常の重力に縛られて生きることで規定されている私たちの存在というものが揺らいでいく。
話をドライブ中の眺めの体験に戻すと、ドライブによる移動の感覚が落下運動へと変化することで不定形になる意識から覗く、空間の可能性がここにあることが明らかにされるだろう。つまり、ドライブ中に本来は進行方向にあるはずの地平線を、その移動を落下に見立ててしまうことで、落下していく先にある地平線としてすり替えていくからだ。地平線を捻ることで、このドライブ中に落下していくという錯覚的体験において、少なくともふたつの地平線が生まれていることになる。落下し続けていく底なしの眺めにいることで予感することのできるのは、地上の重力によって支配されていない、地平線が散らばっている眺めだ。それは 1 種類のものを散らばしていくことで詰まった眺めを生じさせようとした《Jamscape》の延長として捉えることができるということに気づいていった。
そしてそのような地平線が散らばる空間において、内臓はどのようにその空間と関係を持つことができるだろうか。養老天命反転地に行ってみないといけないという思いは高まっていった。
### 3-3 修了展示構想
2024 年 1 月 28 日から 2 月 2 日まで開催された [[「第72回東京藝術大学卒業修了作品展」]] において、[[《Jamscape Dropping Car》]] は初めて発表された。東京藝術大学の絵画棟 1 階のアートスペースの暗幕で区切られた一角に作品は設置された。
[[《Jamscape Dropping Car》]] はヴィジュアル・サウンドインスタレーションである (Fig. 9)。6 分 54 秒の映像が天井から床面に向けてプロジェクターで投影される。
床面に映されているのは、私が執筆時点で居住している千葉県松戸市から岐阜県養老市にある養老天命反転地までをドライブしている間に撮影した進行方向の様子だ。その距離はおよそ 436km あり、約 6 時間のその運転中に一度も休憩することもなく長回しのまま撮影された。この 6 時間の映像を徐々に加速していくように早回しにし、5 分ほどの映像に縮めているものが床面に投影されている。ちなみに、この 5 分という時間は、出発地点から養老天命反転地の 436km の距離を、地球の重力で生じる重力加速度をともなって自由落下した場合に、地表に届くまでの時間を算出したものを目安にしている。撮影に用いたカメラとレンズは GoPro Hero 12 の Max レンズモジュラー2.0 だ。177 度の視野角と強力な手ぶれ補正機能を備えているため、超広角の画面からはスピード感と没入感を鑑賞中に得ることができる。
投影された映像は暗幕で閉じられた暗闇から浮かび上がるように見えるように工夫を施して造作している。そのように浮かび上がって見えるのは、映像の形が楕円形で隅がないのと、その映像の縁が暗闇に向かって徐々にぼかされているためである。このような空間と映像が馴染むような印象を持つ視覚的体験を成立させるために、投影されるスクリーンの淵にもグレーからブラックへのグラデーションを塗料によって施し、そしてプロジェクターの光に対しても楕円形の穴が空いた覆いを通過させるようにするという特殊な仕事を行なっている。サウンドはサウンドを主に扱うアーティストの安齋励應の協力のもと、5.1ch のオーディオ環境を用意しており立体的な音体験を提供する。視聴覚表現のコラボレーションによって、鑑賞者の身体感覚、内臓感覚がさまざまに変化していくことだろう。
![[Jamscapedroppingcar_01.webp]]
[]: Fig.9 荒川弘憲 [[《Jamscape Dropping Car》]](2024)
この映像の内容のほとんどを占めているのが上記の落下を思わせるドライブ中の映像であるが、この映像の終盤である、養老天命反転地に到着した直後に、養老天命反転地で撮影された短いカットが挿入されている。それは上下左右を回転しながら養老天命反転地を映し出しており、私たち鑑賞者に目眩を起こさせるかもしれない。このカットは、カメラを養老天命反転地で放り投げて撮影されたものだ。長時間の落下のカットから、養老天命反転地での回転するカットに切り替わるこの映像作品の構成に何を解釈してもらうかは鑑賞者に委ねられるが、一見すると長時間の落下から地面に衝突した衝撃として認識されるような内容になっている。落下がどんどん加速していき、養老天命反転地に墜落して転げ回るというように。
また [[「第72回東京藝術大学卒業修了作品展」]] においては、もう一つの映像を用いた作品をヴィジュアル・サウンドインスタレーションの引き込み線として設置している (Fig 10)。60 インチのモニターと撮影に使用した自家用車のミニカーを組み合わせた作品である。暗幕の中で《Jamscape Dropping Car》の映像が投影されているため、暗幕の外の潜在的な鑑賞者を誘引する狙いからこの作品を導入することにした。モニターには、車で走行しながら車道を上から撮影した映像が映されている。ミニカーはその映像を背後に吊るされていることで、車が落下している状況を模型的に表現している。
この落下のような経験を生じさせる映像メディアを用いた試みは、映像メディアと内臓の交わる経験として濃密なものになると期待している。
![[Jamscapedroppingcar_03.webp]]
[]: Fig.10 荒川弘憲 [[《Jamscape Dropping Car》]](2024)
## おわりに
修了制作作品の [[《Jamscape Dropping Car》]] と、この作品を含んだ《Jamscape》シリーズについて解説するにあたり、《Jamscape》のモチーフとなっている詰まった眺めとは何か、そしてそれをどのように表現することができるのかをこの作品解説文に通底する問いに据えて論じてきた。そして、それは今までに繰り返し制作してきた《Jamscape》を論中で引き合いに出しながら進んでいき、この詰まった眺めという概念を立体的にしていくような試みでもあったはずだ。
詰まった眺めが何かについては、これからもその概念を柔らかく扱えるようにしたいためここではあえて触れない。他方で、詰まった眺めをどのように表現するかということを考えたときに、現時点で導き出されているのは、映像メディアの〈内臓に直接触れる〉という可能性に着目して表現を行うという考えである。[[《Jamscape Dropping Car》]] では、この可能性に焦点を当てて映像インスタレーションとして制作された作品として構想している。この作品を通じて、ドライブ中の眺めが落下の体験へと変容し、新たな空間認識を生み出すプロセスが私たち鑑賞者にも生じることを目指している。
## 謝辞
作品解説文の執筆にあたって、見守っていただいた先生たちにお礼申し上げます。副査の西尾美也先生には、今後の私自身の展開にまで目を向けさせる指摘をいただきました。副査の古川聖先生には、論文を執筆する上での心構えなどを指導していただきました。主査の小沢剛先生には、先生の表現をすっきりしたものにする手つきが、執筆時のさまざまな判断と、修了制作作品に反映されています。
## 注・引用文献
[^1]: 大森荘蔵『新視覚新論』、講談社学術文庫、2021、66 頁。(1982 年に東京大学出版会から刊行されたものが原本。)
[^2]: 安冨歩『マイケル・ジャクソンの思想』、アルテスパブリッシング、2016、22 頁。マイケル・ジャクソンが敬愛していたというコメディアン、チャールズ・チャップリンの『モダン・タイムス Modern Times』(1936) に出てくる、チャップリンが歯車の間を通り過ぎていくシーンは現代社会という大きな機構の歯車となってしまう人間の姿の風刺であり、それを例に挙げながら「スムーズな状態」を説明している。またスムーズな状態が行きすぎるとマイケルの曲のタイトルにもなっている「Smooth Criminal」となる。
[^3]: 同書、23 頁。
[^4]: 同書、29 頁。
[^5]: Timothy Morton, Realist Magic: Objects, Ontology, Causality, Open Humanities Press, 2013. p. 22.(訳文は篠原雅武『複数性のエコロジー――人間ならざるものの環境哲学』、以文社、2016、68 頁より。)
[^6]: ここの解釈の多くは、篠原雅武著『複数性のエコロジー』、以文社、2016、68 頁に依っている。
[^7]: この部分は、ジル・ドゥルーズの概念である『リトルネロ』に触発されている。ドゥルーズがこの概念をどの著作で詳述しているかは明確ではないが、リトルネロは繰り返しによって自己のテリトリーを形成する行為を指すと解釈されることが多い。この概念は、鳥が囀りによって自己の領域を示す行為に例えられ、ここでは《Jamscape》の制作過程において、繰り返しによって生じる「自分自身の感覚」の形成と重ね合わせて考えられている。
[^8]: まだJam という概念に辿り着いていないため《Standing Rods》である。Rods が単数形でなく複数形で表記されているのも、複数の釣竿を湖に浮かべているという通常の認識の延長が反映されている。回顧して《Jamscape》のシリーズに組み入れるのは誤りかもしれないが、《Jamscape》の展開の上で触れる必要性があるため参照している。
[^9]: 主に公開している修正版は 29m27sec になっている。
[^10]: 「そのマクロなスケールと想像力から、思いがけないさまざまなアプローチの可能性を現在にむけて提供することになった。経済学的、生態学的、建築学的、さらにはフェミニズム的な...。」(『ART VIVANT――特集=ランド・アート』20 号、西武美術館、1986、表紙より。)
[^11]: ローレンス・アロウェイ「ロバート・スミッソン」斉藤泰嘉訳、『ART VIVANT――特集=ランド・アート』20 号、西武美術館、1986、114 頁。
[^12]: スミッソンはサイトを海洋的という言葉で表現することがある。サイトの広大さや不確定性を象徴しているものと思われる。
[^13]: 三輪健仁「ロバート・スミッソンをめぐる三つの旅」、[オンライン]https://bodyartslabo.com/report/three-trips-on-robert-smithson.html、2021、第一の旅 ニューヨークより。
[^14]: このあたりに関しては次のテキストを参照のこと。三輪健仁『ロバート・スミッソンの作品一覧|「プラスティック展」(1965 年) から「ノンサイト展」(1969) ま で』。
[^15]: 注 12 の文献、121 頁。
[^16]: Robert Smithson, "A Cinematic Atopia," Artforum Vol. 10, No.1, 1971, p.53.(訳文はローレンス・アロウェイ「ロバート・スミッソン」斉藤泰嘉訳、『ART VIVANT―― 特集=ランド・アート』20 号、西武美術館、1986、121 頁より。)
[^17]: 注 12 にあるものをもとに清書した。
[^18]: 福尾匠『眼がスクリーンになるとき』246 頁に、これと関連する概念と思われる、イメージが身体に与えられていく態度としてドゥルーズの「ゲストゥス (Gestus)」という概念が紹介されている。
[^19]: J.J.ギブソン『生態学的視覚論』古崎敬ほか訳、 サイエンス社、1985、1 頁。
[^20]: この内臓というアイデアは三木成夫の内臓論から暗示的に受けとったものでもある。三木は内臓の感受性というものを宇宙のリズムと共振することで生じるものだと論じるのだが、知覚に近づけた内臓の感受性についても指摘しておりそちらに私は着目している。この内臓感覚が知覚の後見人となって、触れてもいないものの形が触れているかのように認識可能になるという。映像の無頭人の身体、あるいは無頭人としての映像を見ている時も画面の運動など、さまざまなイメージがこの内臓の感覚によって再現されているのではないだろうか。(三木成夫「内臓の感受性が鈍くては世界は感知できない」、『海・呼吸・古代形象――生命記憶と回想』、うぶすな書院、1992 年、126−133 頁。)
[^21]: ほしのあきら「映像の中の写真性についての考察」、『映像学』第三号、日本映像学会、 1984、82 頁。
[^22]: 谷昌親「アナーキズムからアセファルへ――シュルレアリスムと『ファントマス』」、『シュルレアリスムの射程』鈴木雅雄編、せりか書房、1998、153 頁。
[^23]: 同前。
[^24]: 大平具彦『20 世紀アヴァンギャルドと文明の転換――コロンブス、プリミティヴ・アート、そしてアラカワへ』、人文書院、2009、367 頁