| | | | |:--------------------------- |:-------- | --------- | | [[Home\|Koken Arakawa 荒川弘憲]] | [[About]] | [[Diary]] | | | | | | | | | ### 2026-07-09 23:17 最近、人の死や衰弱を感じる機会が多い。死が少し前より確実に身近になっている。 隣の家の玄関扉に新聞が溜まっていた。金曜日から溜まり始め、月曜日の夕方になってもそのままだったので、不審に思っていた。彼女が不動産屋に連絡をし、月曜日の昼に救急隊が訪れた。隣の人は浴槽に倒れたままだったそうだ。またこんなこともあった。大学に行くまでの橋の上で、右の車線は空いているのに、僕の車線の二つ前のトラックが停止している。少し待って車線を変え、追い越したときには、そのトラックの前に渋滞はなかった。振り返って運転席を見ると、大きな男の人が眠っていた。もしかしたら意識を失って、かなり危険な状態だったのかもしれない。でも、ブレーキを踏んでいないはずなのに車が動いていなかったのは、なぜだったのだろう。夜にドライブしていたときに稀に見かける首としっぽの長い動物の下半身も、道路の上で赤く滲みながら消えていた。 そういうものを見るとき、僕の柔らかい部分がザワザワとしだす。それはコナトゥスと呼ばれる力と関係していると思う。コナトゥスとは、スピノザ『エチカ』の中で示される「自己の存在に固執しようと努める」力のことである。何かの存在が消えていくものの近くに居合わせたとき、自分があり続けようとする力が、かえって際立ってしまう感じがある。このコナトゥスは、単なる生存本能ではない。その努力が促進されるときに喜び (laetitia) が、妨げられるときに悲しみ (tristitia) が生じる——生の力の増減が、そのまま情動の色合いとして現れる。だから僕は、消えていくものの近くで、自分の生の力の目盛りが動くのを感じ取ってしまう。 遠赤外線で暑かったであろう風呂場の中で三日間倒れていた隣の方や、もしかしたら血糖値スパイクで意識を失ったトラックドライバーのように、彼らの状態は、自分がこれまで経験したことのある不快感の中に見出しうる、自分の消失の危惧とつながってしまう。この、死とつながる不快との関係において、僕の生の力の増減とその色合いもまわっていくのかもしれないと、気づいてしまったようなのである ### 2026-07-03 23:50 千葉から東京へ車で行くとき、川を渡る。渡るために橋を走る。夜以外はだいたい混んでいて、車はスピードを落とす。そういうとき、橋の歩道にいる人を見る。小学生が歩いている。なんか跳ねたりしながら、こっちに向かって橋を渡ってくる。一人なのに笑顔で、それが眩しい。 川幅が広いからもちろん橋も長い。橋に出ると空間がとたんに広くなる。平野に広がる街、ボート、河川敷、川の水、空。それを背景に小学生は歩いている。日の光の傾きや加減が大きな範囲でいっぺんに反映されて、ドラマチックだし爽やかで、その中を小学生が歩いていき、買い物帰りの主婦の自転車が通り過ぎる。人間が巨大な街に埋もれるんじゃなくて、巨大な街との関係の中で捉え返される。 最近はマインドマップをパソコンで描くツールの習得に励んでいる。自分で操作できるようになりつつ、AI がそのツールを直接編集できるようにしてみた。マインドマップは頭の中を書き出しながら整理するものだけど、AI がそれを描けてしまうと、こっちが考えていることをとりあえずリストで並べて、そこから AI に適当に階層化してもらって、それをマインドマップにしてもらいたくなる。大体いい感じに一望できるものが出力される。マインドマップというよりは樹形図のようになっていて、哲学を起点にさまざまな学問分野が枝分かれしていったというような美しいが維持していくのはなかなか困難な樹形図を思い出す。でも樹形図的に眺めているうちに、発酵してくるものがある。understand もきっと、立ちあがって下にあるものを見ているみたいな認識状態なんだと思う。 ### 2026-06-25 12:53 目がぴくぴくするのが続いている。眼瞼ミオキミアというらしい。側から見たら気が付かれないくらいの小さな痙攣だけれど、僕は目元が勝手に動いていることが気になってしまう。まず睡眠とカフェインと画面時間を少し緩めてみる。自分の身体の中に自分の意思で制御することが難しいものがあるということをこのような形で知ることになる。 これを感じとることで、自分がどのような心境のときにストレスを感じているのかを知ることができる。企画書の提出や、自分の論文執筆、そして将来のことなど漫然とした懸念事項がある中で、パソコンに向かい続けていると呼吸がわずかに浅くなり胸から首の辺りの体温が熱いのか冷えているのかよくわからないような感じがする。この感じは僕自身も無視しようと思えば無視できる程度のものだし、側から見ても何も起こっていないように見えるだろう。でもこの感じをまぶたのぴくぴくとともに意識的に味わってみることで、自分がこれから生き延びるために必要な感覚の味を覚えていくことになる。自分の微かな情動の味に気づくこと。それが、自分の行動や思考がどこへ運ばれていくのか、その向きを直すための手がかりになる。 ### 2026-06-16 00:06 上野公園の噴水広場で三線を弾いている男がいた。動物園前交番のそばの黒い石のステージに座ってしばらく耳を傾けた。沖縄の民謡かもしれない。サウンドレコーディングの文脈で知った久保田麻琴の楽曲を彷彿させる。 [Sketches of MYAHK, the album sampler

, long version](https://www.youtube.com/watch?v=T5ZmmvKjEuo) 男は流れてたまたまここにいる感じがした。青い三線のケースを背負ったまま、太い木の下で軽く弦を弾いている。そばに「開運」と筆で書かれた木製のこじんまりとした賽銭箱が浮いている。木の下に立っているのは男と賽銭箱だけだ。「ヘブンズアーティスト」のような行政の許可をとった看板があるわけでもなく、アンプに繋いで拡声するわけでもない。弦を撥で叩いては払い、音が交互にはねては空気にほどけていく。その力の抜けた演奏から、この三線弾きは流されてきて、ここでその妙なる音は束の間に鳴っているのだという感じがする。この公園の端で、これくらいの音量ならば居てもいい、というようなボリュームで旋律はたどたどとつながっていく。 その男にしか見えていないどこかと繋がりながら、音は紡がれているのではないか。顔を斜めにあげ、片方ずつ肩をリズムに合わせて持ち上げては下げる。たとえば阿波踊りのような手足のステップがかなり控えめに折りたたまれ、それが少しだけ体の表面で発露したような動きをしている。身体を前後に揺らすのではなく、腰や膝の左右の傾きを変えながら、斜め上から何かが訪れ、受け入れられ、三線を鳴らす指がその運動を音へと変換していく。 男は斜に何を見ているのだろう。おそらく、感じることのできるものを見ているのではないだろうか。足もとは動いていない。でも膝からうえを揺らしていくなかで、とある世界のなかへ沈んでいっている気がする。三線を聴きながら、この感覚が僕の方にも移ってきて、僕の身体でも、男がいる世界のなにがしかが引き受けられていく。音に捉えられ、沈んでいくうちに、心的な空間を移動しているかのようだ。あるいは、心的な空間の変容を、包まれるようにして感じることになる。これを見ている自分と、見ている世界や音とは、どちらも感じ取られるものとして同じようなものになる。対象が硬いときには自分の肌の柔らかさを知り、対象が柔らかければ自分の骨の硬さを知る。身体を気づかれないくらい小さく細かく揺らしながら、私と対象とが交わる世界の大きな流れを味わっていく。 ### 2026-06-13 15:27 夏にかなり近づいている日だった。 その日、僕は九十七冊の本を電子書籍化するために、新宿にあるスキャンピーという代行サービスへ運びに行った。車をすぐ脇に横づけできて、シルバーの指輪を三つほどつけたお兄さんが対応してくれる。受付の奥には、大量の本と裁断機とスキャナーが見えた。本がほどけて、データになっていく場所だ。 僕のやろうとしていることは、その先にある。Claude Code で、OCR もされていない PDF から yomitoku というスクリプトを使って日本語を高精度に OCR 化し、そこから Obsidian に本のノートを立ち上げる。書籍の内容が Markdown 化され、書誌情報や階層化の処理を経て整えられ、ついでに本だけを集めたデータベースに格納されるよう、YAML フロントマターも適切に埋めてもらう。本が、参照可能な知の単位へと作り変えられていく。読みやすさ、コピペのしやすさ、欲しい時に読めること。こうしたことはやはり、パソコンやスマホで読むのが便利だ。 ここで僕が吟味しているのは、ごく単純な問いだ。PDF 化された本と、Markdown 化された本、どちらが読みやすいのか。 PDF 化されたものは、書籍としてまとめられているから綺麗にまとまっている。章や空白がデザインされていて、それがとてもかっこいい。かっこよくて、「ここまでですごいことが書いてあった」という余韻や、「これから何かが起こるんだろうな」という予感が、その造本によって醸し出される。けれど、まさにそこで僕は注意を削がれることがある。文章という、思考が運ばれていくのを辿っていく体験は、案外、Markdown の淡々とした文字の連なりでいいような気もするのだ。もちろん図鑑のように、あるいは問題系を図示するように、本の中の視覚操作が有効になることもある。しかしことに、思索が述べられた論やエッセイについては、プレーンな文字のほうがいい気がしている。 古い本は開けると咳が出てしまう。埃や菌が付着していて、喉がむず痒くなったり、目が痒くなったりする。新しいパソコンというインターフェースがある中で、紙の本ではない形で情報にアクセスすること。これをこれからの時代は模索していくことになるのだろう。紙の本から電子書籍へ。 これは僕にとって「美的アライメント」の話でもある。アライメントとは、AI の価値基準を人間の側に調整することを指して使われる言葉だ。AI に限らず敷衍すれば、機械の振る舞いを人間の価値や意図に合わせること。人間が基準で、機械をそこへ寄せる調整を指す。けれど美的な領域では、それがうまく成り立たない。何が美しく、何がかっこいいかには固定の正解がなく、しかも機械と関わるうちに、人間の感覚のほうも動いてしまうからだ。現にいまの僕がそうだ。造本の余韻やデザインされた空白にあれほど惹かれていたのに、こうしてデータ化を進めるうちに、淡々とした文字の連なりのほうに価値を見出し始めている。機械を人間の美意識に合わせるだけではない。人間の美意識のほうも、機械との協働の中で書き換えられていく。評価が一方通行に下されるのではなく、人と機械がお互いの美的価値を擦り合わせ、双方とも更新されていく。Markdown 化された本という叩き台を与えられた AI は、いまその議題が問題系のどこに位置しているのかを、ある手応えとともに、僕の思考を展開してくれる。 それでも僕が PDF データを残しているのには理由がある。ページ数が確認できることと、資料としての価値だ。こうして書きながら文として固定されていき、自分が何をしているのかがだんだん見えてくる。本に残されているということ自体が、「本にまとめた」という仕事の結実なのだ。Markdown 化したものは、いつでも改変できてしまうだろう。だから僕は、そうした情報の流動性をいったん断ち切り、一つの参照されるものとして、限定されたかたちで止まっているものとして、PDF を握っている。 ここで気づくのは、本という形式がしていることの正体だ。本は、ただ知を入れる器ではない。流動的でいくらでも書き換えられる知の流れに対して、「これがその版だ」「ここで止まっている」という固定点を打ち込む装置なのだ。固定されるからこそ、引用でき、参照でき、誰の仕事かを帰属させられる。そして、ある版が正統で、誰が責任を負うのかが決まる。本とは、知を止めることで、その知をめぐる権威と責任の所在をはっきりさせる仕組みでもある。 そう考えると、本という形式が知の継承の中で果たしてきた役割は、もっとプラグマティックなものに見えてくる。知を伝えていくためには、これまで権威的なものが必要だった。というより、本という固定装置こそが、その権威を物理的に成り立たせていた側面がある。止まっているもの、改変されないもの、責任の所在がはっきりしているものがあるからこそ、そこに社会からの資源を投入する根拠が生まれる。図書館も、出版社も、学問の引用制度も、この「止まっていること」の上に乗っている。僕が PDF を握りしめているのも、規模こそ違え、同じ身振りなのだ。流動する知の中に、自分用の小さな固定点を打って、参照できる権威を確保しようとしている。 だとすれば、AI とともに考えているいま、問いはこうなる。この固定装置に頼らずに、知を継承していくことはできるのか。 インターネットの生産物のありようには、別の答えの萌芽がある。コードがオープンソース化され、そこから各自がフォークして、自分が使いたいように作り変えていく、というあり方だ。ここでは、知は一つの正統な版に固定されない。むしろ書き換えられ、分岐していくことそのものが、知が生きて受け継がれていく形になっている。情報や知の継承は、本や徒弟的な権威に頼らずとも可能になるのではないか。そういう希望がある。本という装置が支えてきた権威の体制——止めること、版を決めること、責任を帰属させること——を、別のやり方で引き受け直せるのか。徒弟制ではない教育がありうるのか、ということを考えたくなる魅力に抗うのは難しい。 ### 2026-06-03 12:53 5 月は様々な書類をつくった。書類の作成も AI によって楽になったとはいえ、5 月に出す書類は気合を入れて作成する必要があったので、書いては不足している点や構成の甘い点を分析し、改良のために必要な調べ物をして、また執筆しということを繰り返していた。家でこの作業にじっくりと向き合えたのが幸せだった。ソファや机を自分でつくったり、XREAL ONE という AR グラスで宙に適切な高さで浮かぶ仮想ディスプレイで作業ができたので、肩や首や腰への負担が軽かった。傍にあるシェフレラの艶々した指や舌のような形の葉っぱにも癒された。 そうやって過ごしているうちに漆やウッドカービングといった手仕事をやりたくてうずうずもしていた。やはりそこには滑らかなものに触れたい、新しい美しい形と出会いたいという気持ちがあるのだと思う。シェフレラの葉はそういう問題空間なのかもしれない。生きているときの感覚は時間や状況を含めたタイミングとともに現れるのであって、それが生まれたままで腐っていってしまったり、蒸散していくことにたいして、常にというわけではなく、稀に抵抗したくなる。それが作品をつくるタイミングなのだと思う。こうした目には見えない欲求や情動の流れを自分の予定にうまく導き入れていきたい。 ### 2026-05-23 00:23 今日はメディアアート・プログラミングの授業で、田所淳先生が冒頭にライブパフォーマンスをしてくれた。ライブコーディングで音を演奏していくのだけれど、そこに邦楽の笙に伝わる独自の音階を組み入れたのだという。メロディに何かの感情を託す、というようなものではない。それでも引き込まれていくビートや凶悪なリフレインが折り重なって、複雑なかたちで情動に触れてくるパフォーマンスだった。 19 時からはさんさき坂カフェで、クロストーク「かつしかけいた×野村穂貴 街を物語にする眼差しについて」を聴いた。街は誰のものなのか、その街をクリエイションはどう扱えるのか。そういう問いを携えたトークだった。お二人はご自身たちでも自認していたけれど、街の専門家ではなく、アーティストや漫画家という立場だ。その立場で街を読み、街を描いていく。だからこそ、街をイデオロギーとしてではなく、そこを見つめてきた者の眼差しとして社会に差し出せる。そういうことを確かめられた時間だった。 上野のホームレスの姿を絵の中に入れるのか、入れないのか。ムスリムの大学生・サラ、エチオピア人の両親を持つ小学生のセラム、不登校の中学生・春太——多様な出自を持つキャラクターが当たり前のように主人公たちであること。なんでもないような手記やホームビデオが、半世紀を経て私たちに語りかけてくるもの。西湖のカラオケ祭りと、不忍池のラジカセに耳を傾ける年配の一団との間にあるかもしれないつながり。属性、文化、場所、時間が重なり合うものとしての街を想像した。 ### 2026-05-14 00:41 Klack というタイピング音を出してくれるアプリを入れた。[Klack — Satisfying sound with every keystroke](https://tryklack.com/) 7 種類の音が用意されていて、カチャカチャ、コトコト、ポコポコみたいに鳴る。Tone pad もあって、自分の心地よい音を細かく追い込んでいける。こうやって自分の感覚を探っていくのは楽しい。 教育学の分野で「エージェンシー」という言葉がトレンドらしい。AI の分野でも、自律的に振る舞える AI をエージェントなんて呼ぶ。エージェンシーはつまり主体性のことだ。学ぶときにこの主体性を感じられているか、というのが重要な評価軸として注目されているという。要は、自分が世界に対して影響を与えられているかどうか。自己効力感の話だ。このエージェンシーの低さと若者の自殺率に相関がある、という研究もあるらしい。自分に対して世界が応えてくれている感覚は、自分が生きていることを確かめる以上の力を持っている。 「自己効力感と気持ちよさをつなげる」ことを、作ることや使うことに持ち込めないか。最近よく考えている。 ヒントは現実生活の中にある。こちらのささやかな加減が、相手の振る舞いによく反映される瞬間。たとえば蛇口。水が出ているのを閉めて、最後にキュッと締めるとき。優しく閉めていくと、水の流れる量もその動きになめらかに合わせてくれる。あれは気分がいい。エージェンシーを感じる。逆に栓が緩んでいて、力を入れてブツっと止めるしかない蛇口だと、なんとなく残念な気持ちになる。 反映されるだけじゃなくて、こちらの小さな入力が増幅されて返ってくると、もっと爽快だろう。アルキメデスの「我に支点を与えよ、されば地球をも動かさん」のあれだ。指先で軽く動かしているだけなのに巨大な地球が持ち上がる。怖さもあるけど、愉快でもあるはずだ。 ### 2026-04-26 11:48 今日の NHK の日曜美術館のアートシーンで私が出品している「未来の日曜美術館のアーティストは誰だ?展」が取り上げられた。ありがたいことに番組の一部で Jam Dipper を取り上げていただきました。再放送が 5 月 3 日(日)午後 8:40〜8:59 にもあるそうです。 今年制作した Jam Dipper の紹介ビデオのリンクをこちらに繋げておきます。[Jam Dipper で舌でみる、心にふれる - YouTube](https://youtu.be/ZAcGzD76WpQ) ### 2026-04-23 13:43 不思議な経緯で能登の穴水に行った。金沢から穴水までのバスが出ている。2 時間ほどかかった。その道は綺麗に舗装されてはいるが、凸凹していたり不自然に歪んでいたりした。奥能登に入っていけば行くほど感じるバスの揺れから、能登の震災が地形を変えたことを感じていた。 穴水の前波というところで芸術でなにかできないかという要望があり。その視察に同行させてもらった。 [地震で人口減少が加速…石川県穴水町の前波地区で桜のライトアップ 住民たちが開いたイベントと医師の思い \| 石川テレビニュース \| 石川テレビ放送 ishikawa-tv.com](https://www.ishikawa-tv.com/news/itc/00007126) ### 2026-04-11 06:34 https://scratchzine.com/submissions Scratch Magazine というサンフランシスコの ZINE だ。アーティストの作品や写真を束ねたタイプのものだろう。作品の募集ページに、収集、コレクションについての Reading List が付帯していた。 - _Evocative Objects: Things We Think with”_ (2007) Sherry Turkle ([PDF](https://courses.ischool.berkeley.edu/i290-2/s08/readings/Turkle_Evocative_Objects.pdf))  - _“The collecting instinct”_ (1900) CF Burke   - _“An Accidental Collection”_(2021)  Haruki Murakami  - _“Unpacking my Library: a talk about book collecting”_ (1931) Walter Benjamin  - _“The Infinity of Lists: an illustrated essay”_ (2009) Umberto Eco  - _[Extreme Beachcombing](https://www.youtube.com/watch?v=rt6wn74gmEY)_ (2024)  - “_On Longing: Narratives of the Miniature, the Gigantic, the Souvenir, the Collection_” (1984) Susan Stewart - _“Thing Theory”_ (2001) Bill Brown  - _“Everybody Needs a Rock”_ (1974) Bird Baylor リストの一番上にあるシェリー・タークルの『Evocative Objects』は、PDF がダウンロード可能だ。英語だが、PDF を NotebookLM に読み込ませれば十分に読める。NotebookLM は、日本語よりも英語の方が精度高く内容を理解しているようにも感じられる。 本書は、物によって人間の意識や思考が喚起されることを提示し、その様態をいくつかのタイプに分類している。たとえば、チェロはバイオリンよりも緊張せずに構えて演奏できるため、チェリストの演奏中の思考は、散歩をしているように軽やかなものになるのだという。「黄色いレインコート」を着ることで外界から身を守るという話もあった。これはまさにドゥルーズの「リトルネロ」――闇夜に口ずさむ少年の話と繋がってくる。物が私たちの思考を形成し、時にその「物」が自分を動かしもする。物は人と世界を繋いでいくためのテクノロジーであり、物とともに僕たちの生存環境は耕されていくのだ。さまざまな事例、しかもアートに触れている箇所も多いため、生きる術、遊ぶ術としてのアートを知る格好のテキストだと思う。 いわゆるミニマリストは、「物を所有すること」は「物に所有されること」でもあると考える。機械は放っておけば電池が切れ、手入れを怠れば壊れてしまう。部屋も掃除をしなければ埃が積もる。物を所有するということは、自分の身体と同じように、それらを「手入れ」し続けなければならないということだ。そこに時間やエネルギーを削られるのなら、物への執着を手放したほうがいい、というわけである。 一方で、手入れの必要がないものもある。たとえば星や空気はどうだろう。僕たちの力も及ばないほど遠かったり、大きかったりする。最近は大気汚染で空気も管理する必要があるというように捉えられるから、天体も私たちが管理できる技術を持ち得るようになったら、それをある仕方で所有していることになるだろう。概念のような物質的でない思考のための道具も、埃を払うような手入れはしなくてもいいが、その概念に注意を傾けて思考に繋げていくという意味での手入れは必要だ。こうした概念には名前をつけることで思考のリストに加えることができる。 少し話がややこしくなるけどもう一個言いたいことが出てきた。わが家の植物は、そのすべてを僕が所有しているわけではないということだ。水をあげたりはするけれど、花が咲いたり葉が増えたりすることに対して、僕に「所有している」という感覚はあまりない。ただ、葉っぱの形や艶に目が留まり、そこにしばらく留まるという「こと」が起こる。そんな関係だ。物からことになっていく。植物自体は僕のものではないが、そこに目を留めていたという経験、植物とともに在った時間は、僕の一部となっている。 ### 2026-04-08 00:13 展示ボックスを開くと、Jam Dipper が鏡写しになり、その円鏡が口元をフレーミングすることで、Jam Dipper と舌が重なるイメージを創出する。そこには、仮想的に「舐める」という行為を行う多くの鑑賞者の存在が想定されている。 HCI や VR の領域には「擬似触覚」と呼ばれる研究分野があるが、舌の運動イメージを鏡から視覚的に捉えることで、脳内でもそれに近い感覚が誘発される。コンピュータはある意味で鏡と言えるのかもしれない。コンピュータとは、やはり心的イメージをシミュレーションする場であり、アラン・ケイはパソコンを「空想・想像(ファンタジー)の増幅装置」と定義した。 ここで、アラン・ケイの言う「ファンタジー」を「フィクション(虚構)」と読み替えてみると、三浦俊彦が『非在の場を拓く』の中で論じてもいる、フィクションとシミュレーションの違いという対比が浮かび上がってくる。 - **フィクション(虚構):** 表層を作り込み、内部は推測に委ねる。制作行為と産物の部分が直接的に対応する。 - **シミュレーション(仮想):** 内部の仕組みを構築し、表層は生成されるままに任せる。 シミュレーションという「ままならなさ」を持つ仕組みを導入し、それをフィクションの要素としてどう組み込むのか。あるいは、思うがままになる自由なフィクションの世界に、あえてその世界と分裂するような力を持つシミュレーションを差し込むことに、どのような面白さがあるのか。鏡に映った舌のイメージを見ることで、彼らの知覚や情動からなる世界に馴染みないものが訪れるのだろうか。 私は、「内部の仕組みづくり」に関心があるようだ。Jam Dipper をシミュレーターとし、舌を変数にすることで感覚や経験として何が出てくるのかわからない。身体感覚・ヴィセラル・感覚 (内臓感覚) はそのような新しいものを引き連れてくる。それでいうと 5 月 9 日まで SCAI THE BATHHOUSE でやっている、ダニエル・ビュレンの巨大な鏡を使った作品を鑑賞した際、展示空間の移動によって作品だけでなく空間そして状況が変化する楽しさがあった。 鏡やインターフェースをシミュレーション的に使い、とある状況を増幅させる。なにかがリンクする仕組みを生み出し、反射していく状況をどう構築していくか。さらには、その反射の装置として「身体」や「内臓」というものをどう組み込めるか。 ### 2026-04-01 23:53 今日は大学のシラバスを確認した。自分の関心のあるものをピックアップしてみた。情報メディア学、メディア概論、美術教育論、写真映像論、CAD 図法演習、メディアアート・プログラミング、創造と継承とアーカイヴ、芸術文化環境論、CAD 図法演習。 情報メディア学、CAD 図法演習、メディアアート・プログラミングは、CLI、パラメトリックデザインやジェネラティブアートなど、デジタルの柔軟性に惹かれるようになっているところから。固定化されたものや自律的ではないものとの関わり方を探求する方法として学びたいと思っている。 創造と継承とアーカイヴはリレー式の教養講座だ。芸術の東西、東京藝大の美術と音楽や空間と建物、という対比的な構成のテーマが続く。こういう世の中のことを知っていく内容も大事だ。芸術作品の負債、収蔵問題は作家活動をしている人にとって直視した方がいい内容だ。岩崎秀雄先生の「生命科学と芸術」も面白そうだ。岩崎先生の HP を見ると次のようなページがあった。「[Hideo Iwasaki - Cultural study on 'biorhythm' phenomenon](https://hideo-iwasaki.com/cultural-study-on-biorhythm-phenomenon)」擬似科学として退けられてきた 1960-1970 年台に日米を中心にブームとなった「バイオリズム」を時間生物学との関係性から検証しようとしている。このバイオリズムブームは三木成夫『海・呼吸・古代形象』とかなり重なるところがありそうだと思った。 他にも美術教育論や芸術文化環境論など、芸術の社会における意義をさまざまな角度から捉えておきたいというところで興味を持った。もちろん全部は受講できないけれど、自分の中の関心をシラバスを眺めながら洗い出していった。 ### 2026-03-27 Google と藝大アート DX が主催した「Create with AI」で Art DX 賞をいただいた高揚が冷めないうちに書いておこうと思う。テクノロジーを用いることで、人間と世界の間に新たなつながりを築くことができる。私がこれまでの制作で扱ってきた映像や、口の中で対象に触れることで味わうようにして感得されるビジョンは、人間の内部へとつながろうとするものだ。テクノロジーや表現が「内部への拡張」という方向性を持つとき、その先で見つけ出し、持ち帰ってきた感覚は、外側の物質空間を新たに形作るヒントにもなるだろう。私たちは「感覚」を、単にセンサーで捉えられる情報としてではなく、より深遠なもの――情動という、汲み尽くしがたい複雑さを秘めた根源的なもの――として感じ取り、その感じ取られる対象さえも創造していくことができる。この「過剰な創造性」によってこそ、テクノロジーに呑み込まれない独自の立脚点を確保できるのではないだろうか。 サイバー・フィジカル・システム(CPS)とは、物理世界とサイバー空間が高度に融合した環境のことだ。以前 VR や XR の研究者に伺った話で、「『仮想現実』という言葉には偽物というニュアンスが含まれるためか、最近はあまり使われないのだそうだ。現在の研究では、「物質世界もサイバー空間も、どちらも等しく現実として捉えている」と語っていた。この考え方を日本でリードしているのが、名古屋大学の米澤拓郎さんであるという。米澤さんは、一人ひとりの知覚や内的ビジョンさえも現実であり、それらが総和されたときに「(共有)現実」になると主張する。こうしたサイバー空間による現実の再定義は、現在進行形で、まさに実際的に進められている。たとえば Apple の Vision Pro は、「スペーシャル・コンピューティング(空間コンピューティング)」という概念を具現化したプロダクトだ。この概念は 2003 年にサイモン・グリーンウォルドによって定義されたもので、コンピュータが画面の中にあるのではなく、私たちの住む「空間」そのものがコンピュータになるという考え方である。 私自身、Obsidian の Excalidraw を用いたビジュアルシンキングを実践し、情報が蓄積される環境を構築して、そこに部屋や都市のように接している。また、AR グラスの XREAL を使ってバーチャルなディスプレイを日常に取り入れているが、これもまた空間コンピューティングを受容する一つの形と言えるだろう。家にある書籍も電子化し、Obsidian の中に「図書館」を築くつもりだ。その延長線上には、人間の意識や欲求、心という移ろいゆくものに呼応して、世界が雲や植物のように変化していく未来を予感する。コンピュータが介在する空間には、そのような変容が可能なのだ。世界のありようがいかに変化し、それが私たちの知性や心にとってどのような意味を持つのか。伊藤俊治の『トランス・シティ・ファイル』は、まさにその先景を描き出している。 ### 2026-03-16 武蔵野大学武蔵野キャンパスの 1 号館で「マインドフルネス×アート鑑賞――鑑賞の主語を「私」にもどす」に参加した。関西大学の小室弘毅先生が考案されたマインドフルネスを美術鑑賞に導入した鑑賞方法で、瀬川祐美子さんの抽象的なカラフルな絵画を鑑賞した。作品の解説や作者の思考から作品の鑑賞をするのではなくて、マインドフルネスなアート鑑賞とは作品を理解したり判断することをひとまず脇におき、作品を観る「今この瞬間の体験」そのものを見ていこうとするというものだ。瀬川祐美子さんの実作品を前にし、体を整え、息を整え、心を整えてからその絵画を見つめた。暗闇から目を慣らすように刺激の少なそうな白いあたりを 3 秒ほど見つめた。目を閉じて直前に目に映っていたものが感覚の経験に与えていくものの方を見つめていく。   鑑賞会では教室の窓のむこうの空や木をみる時間があった。それは鑑賞の終盤だった。それからまた絵に戻り、絵の具が垂れているのに注目し目を瞑り、口内の唾液が溢れて流れ落ちていくに気がついていった。窓のむこうに空をみて、完成した絵も動いているのだと思った。絵のなかの形や絵の具が動き出すということでもなく、画家が描いたときの筆の捌きに思いを馳せたというわけでもない。つまり、雲もあまり動いておらず、空の色も同じ空色のままなのにそこにうつろいを感じとるように、目で見てなにも変わることのない絵もうつろっているのかもしれない。そうして唾液が豊富に喉をつたっていくのを感じていた。   冒頭の小室先生のレクチャーではマインドフルネスにおける「2 つの気づき」が紹介されていた。まずは注意する範囲を限定し焦点を絞っていくことで得られる気づき。つぎに、まるで反対のようなのだが、注意する範囲を広げ意識のフォーカスをひろげていくことで得られる気づき。この 2 つである。フォーカスをひらいていく気づきは、たとえば夢を見ているときに「これは夢だ」と俯瞰していくようなものに似ていて、さらに進んでいってしまうとノンレム睡眠のあいだの夢も見ていない深い眠りのときにも「私は深い眠りにいる」と気づいている、そのような「気づき」なのだそうだ。ポール・セザンヌが引かれていた。「そこに並んだ巨匠の作品を見終わったら、急いでそこを出て自然に触れ、私たちのうちなる本能、芸術の感覚を生き生きとよみがえらせなければなりません」。 ### 2026-03-12 ホームページを新しくした。この Diary では自分ごととしてどのように言葉を書いていけるのか練習していこうと思う。